午前5時のジュリエット/りつハァモニィベルさんのコメント
これも一人称が失敗していますね。
例えば、学校で朝、教室に入ってきて友達に話しかけるとき「私ね」と切り出すと、かなり強い枕詞になりませんか?
聞く方は、余程、ワタシオリジナルな特別な事を言うのだろうと、そう思って期待しますよね。ところが、ワタシね、と前置きする程のことじゃない話だと、ハァ?という気分にさせる。その辺りの語感を身に着けないと、いつまでも、浮いた一人称から卒業できないままロミオ以外からは憫笑されてしまいそうだな(と僕は)思うのだけれど、まあ、一種のコビリツイた癖なんでしょうね。
あと、この作品で唯一詩的な表現になっている
>〔私は〕人差し指を踊らせる
というこのフレーズが、美味く生かされてないのが残念でした。
これは、詩を書く動作の表現としてはかなり良いのに、
なぜ「人差し指を」と書いてしまうのか、それだと、ただイラツイてるか落ち着かない仕草のような印象が強くなる。
単に、《わたしは、指を踊らせる》の方が、詩を書いている感じが多く含まれて美がありませんか。
仮にイライラしたり落ち着かない仕草までが、詩をかいてることであるかのような含みまで表現できる。
なのに惜しいな、と思いました。
以上のようなセンスの欠如を感じるから、残念ながら、ポイントなしです。
りつさんの「私」というのを、ご自身がもっと掘り下げるといいんだろうなと思います。
例えば > 足元にひれ伏して
というのは、自分で勝手に思ってるだけでね、別に足元にひれ伏してもロミオから愛されるわけではないでしょ。
現実は例えば、ふたりの女性がいて、キュウリを切るとしますよね、
一人は綺麗に薄く輪切りに出来るが、もう一人は、切りはしたが下がみんな繋がっていてちゃんと切れてない。
としたら、自然に前者の方をロミオは選びたいと思うだけで、別にひれ伏してまで切らなくていいわけです。
ああ、切れないんだな、と思って、切れる女性の方に惹かれる、というただそれだけの、人の心の自然な成り行きです。
それでも、キュウリの切れてない女が好きという一見ヤサシげな男もいるでしょうが、それはその男も切れてない男だったりしますよね、世の中は。
だから人間社会も、海の中のような多様性が泳ぎ回っているんだろうなと思います。
「私」というものを書けるということは、多様な他者のことも書ける、ということなんでね、「私」が上手に書けない人は、他者の姿も的確に書けないんですよ。ちゃんと見えてない、真っ直ぐに認識できてない、ということだから。
(僕の「詩の水族館」を読んで頂きありがとう御座いました。お礼を意をこめて、このコメントを書きました。
ご参考になれば幸いです。)