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ハァモニィベルさんのコメント
タイトルにある「極私的」と「偏向」は、奇を衒った逆説ではなく
誠実にそう自覚した上で、自分の好みをちゃんと打ち出していて、
それが伝わりますから、ポイントありに、しようかと思ったのですが、
一点、ちょっと気になった点があるので、あ、すごく惜しいな、という
感想です。

その一点というのは、ご自身で

 >泥落として皮剥いできれいに並べてはあ、つまらんことやっとるで

と言っているのに、この作品が、改行されているからです。

もし、改行なしに全て書かれていたら、主張と調和しているので名品とは言えないまでも
好感触のある作品だったのにな、と思いました。

ささやかな点ですが、お説からしたら、大きな点ではないでしょうか。



通常誰しも、砂だらけのポテトチップは食べたくないものですが
<オレは違う、オレは、他人が地面に落としてしまった おにぎり でも食べるよ。むしろそれが好きだ>
というのは、極私的で偏向していても、好感を持てるから良いと思います。
ただし、それは、享受する側であるときですね。

自分が差し出す側になったとき、他人にも、泥だらけの おにぎり を差し出して食べろ、と言うのは
どうなんだろう、とそんな素朴な疑問と違和感を、(わたしは、ですが)感じます。



古く汚れたコインでも、浜辺の濡れた砂で、強く擦ると、卸したての新品のようにピカピカに戻ります。
古く汚れたコインを人間だとすれば、詩というのは この浜辺の砂(泥)のような働きをするものだ、
と、言えるでしょうね。
だから、敢えて泥を付けなくても、詩そのものが、人の輝きを磨き出す泥なんだと、僕は思う。
(私の「詩の動物園」を読んで頂きありがとう御座いました)





















---2025/08/16 19:49追記---