戦後ちしき人が落っこちた穴ぐらの暗さ/室町 礼
杉原詠二(黒髪)さんのコメント
わたしの知っている範囲で、私が責任をもって言えば、1990年代の知識人は、非常に独善的な所があります。ノリで、悪から善を作り出す、と言って、感情的になり、冷静に見れば流れの中に乗っているだけに見えるようなことを、やや無責任に言っている感じがします。一定の意味はあれど、みっともないということは言える。ポエムとの相性が悪いということも、確かな気がします。倫理的に、弱者の側に立たないのですね。そして、その原因は、詩的感覚の欠如にあると、僕は思っています。自分がマッチョである、と堂々と言えるのは、少し問題があるのじゃないかと。時代の最先端を追いかけるのは、思想家であればまあ大目に見たいのですが、間違った方へ世界を導いているのが事実であった場合、その適当な主張には、もう少し抑制をかけた方がいい気がします。ヨーロッパ化した現代であるとか、事実を認めていても、そのカウンターとしての価値を、作り出そうとしないのは、怠慢ですよね。西洋思想の紹介学者は、デモでワーワーいうくらいが、精一杯です。まだわたしも勉強が足りませんが。
---2025/08/11 17:58追記---
あらがいさんへ、わたしは、大学時代に単位をもらえなかったある知識人のことを念頭に置いています。わたしの眼が悪く、勉強が出来なかったため落ちたのだ、と思っていたのですが、この先生の言っていることも、かなりおかしかったです。だから、むしろ落ちたことが逆に良かったと今思っています。感情的なしがらみやいさかいがあっても、世界に対する責任の面で言うならば、個人的な執着を持っているのは、非常に愚かで無責任な態度だと思います。スパッとは割れないのですよ、思想と言うのは。様々な歴史の果てにあるものですから。様々な分派がマルクシズムに起こったことを考えればわかるでしょう。ああいうものと、対決する必要が、高野悦子の後に続く我々現代の詩人には、あると思っているのです。適当なことを言って間違ったら、反省しなければならない。自説に固執することは、かなりの程度、許されてはならない。自灯明法灯明、自己に頼れ、法に頼れ。その他のものをよりどころにしてはならない。
 ひとことで言えば、難しい言葉を使うバタイユとかに、我慢がならないのですよ。室町さんを擁護すれば、彼は、洗脳するような言葉を使っていないでしょう。むしろ、かなり謙虚に書いている。その言葉が間違っていたって、人のせいにはしないですよ、彼は。そういった最後の良心を、持っていらっしゃる方だ。わたしがみる限り、彼の信念は、「現実認識を、正しく、行え」ということに思えます。お追従の論文を量産する学者に、何の偉さがあるだろうか。

---2025/08/11 18:33追記---
あらがいさん、両者同じ側のムジナ、ということですか。すると、弱者はどうなってしまうんでしょう。どこにも行けない弱者は、見捨てられるんでしょうか。わたしは、そうしたくない。だから、第三の立場に立つ。詩人は、弱者の声を聞くものだ、というのが、アドルノ以来の詩人の掟でしょう。

---2025/08/11 18:38追記---
あらがいさん、「精神一到、何事かならざらん」。家訓です。