ホロウ・シカエルボク氏「喪失というものにかたちがあるとしたら」を読む/朧月夜
朧月夜さんのコメント
ポイントありがとうございます。

>アラガイsさん
わたしの場合、批評で「解題」はしないと決めていて、あくまでもわたし個人における読書体験の再構築から、読み手におけるワイルドカードの一つが提示できればと思っているのですよね。
うーむ。一気呵成に書いたもののように思われるかもしれませんが……(300字程度のコメントであればそういうこともあります)、それより長くなると、書いている途中で何度も最初に戻って、ということをしているので、持続は単に技術的なものです。
実際四苦八苦しながら書いていますよ(笑)。

>森田拓也さん
喪失体験は、個人を押しとどめ、また押し進める体験であるとともに、それがなければ始まらないスタート地点でもあるように思うのです。ホロウ氏にとって、この詩のなかでの「喪失」は、自嘲であるとともにプライドでもあるように思えるのですが……そこは、本人に聞いてみなければ分からないですけれどね。
もう一つ。過去には、ホロウ氏の詩は一気呵成に、熱情によって書かれたもの、とわたしも思っていたのですが、いつだったかある作品に四日間かけた、というお話をうかがったとき、この詩人における詩の持続は単なる時間の連続、すなわち情熱の発露は越えたものであるように、思っています。「爆発」──ではなく「細心」なのではないか、と。

>ホロウ・シカエルボクさん
コメントありがとうございますね──「そもそも詩人なんて喪失から生まれるものではないかな、と思います。」そう、それなんですよね。わたしも多分そういうところから入ったと言いますか、長い間そういうことを考えていたというのはあるのですが、このごろは「喪失は絶対だろうか?」ということも思うのですよね。そのことは、単にわたしが今詩を書いていない、ということを示しているのに過ぎないのかもしれませんが。
この情景のなかのこの病院は、──廃病院と思っても良いんですが……むしろ、この詩の全体を流れる「時」の監視者のような役回りもしていて、舞台装置のなかに組み込まれた曰く言い難いもの、三次元に投影された高次元の象徴、といった雰囲気も持っていて……。まあ、あまり解題などしないほうが良いのですが。
---2024/10/24 08:23追記---