torrential rain/ホロウ・シカエルボク朧月夜さんのコメント
少し迷うものではあるのですが(わたしの錯覚か誤読かな、と)このところのホロウ・シカエルボクさんの作品は読みやすくなってきていると言いますか、以前にくらべるとややゆったりとした時間が流れていると感じるのです。昨年以来好調だとおっしゃっている通り、精神的な安定(という言葉は時として失礼に当たることもありますが)なのか、あるいは頂上で静止する高揚感なのか、とにかく、言葉を引っ張る自分と言葉を保とうとする自分がハーモニーとなっていて、そうしてある意味では優しい(厳しさも優しいことがある)詩群になっているのかな、などと感じるのですね。
>俺はとっくに大量殺人者として収監されているだろう
これはまったく同意で、芸術家、という大げさな表現は止すとして、表現者というのはつねにそんな殺人者のような魂を持っていると思うのです。何もないところから作り出し、それを鑑賞者に感受させる、これは一種のレイプでしょう(ちょっとスキャンダラスな言い方で、誤解なくニュアンスが伝わると良いのですが)。谷川俊太郎なども優しいレイプである、と感じたりもするのです。もちろん、鑑賞者のほうから近づかなければ、作者は襲っては来ません。ただ、そこに精神のせめぎ合い、発火というものは必然的に起こるもので、そこに鑑賞者は一種のスリルを感じるのだと思います。
それに続く情景描写は、抒情と叙景が一体となっていて、どこか昭和初期の自然主義の匂いを感じさせます。誰に似ているのか、とも思ったのですが、そういう比較は失礼ではありますよね。わたしも、そうした作品群を読んだのははるか昔ですから、ここでは誰に似ている、ということは書きません。ただ、ゆったりと優しく落ち着いている、という感じはします。滅びゆくものへの愛情……ですとか(この言い方は正確ではないな)。まあ、馬鹿は馬鹿として軽蔑しつつ、というスタンスも描かれていることは、ホロウさんなりのユーモアの表れだろうと思っています。
あと一点、「伸びた髪を後ろへ流しながら」という一節を読んだとき、普段は自分を語りつつ自分を語らないホロウ・シカエルボクさんにあっては(自分語りをしないという意味です)、少し珍しい表現かなと思いました。なかなか気付かない、ホロウ・シカエルボクさんの進化ではないでしょうか。んまあ、「うぜー、そんなことないんだぜ、お前の気の迷いだぜ」みたいなことを思われる可能性もありますが……この些細な一点に読者は目を止めてほしいかな、と思ったり。ホロウ・シカエルボクという詩人を身近に感じられるんじゃないかな……以上、コマーシャリズムの立場から。長々と失礼しました。