少年の惑星/オロチねこ
朧月夜さんのコメント
これはまたすごい人が来たなあ、と。でも、原石ですよ(企んで書かれた詩であれば、話は別ですが)。とくに思うのは、「パネルラ テケリリ」という擬音(「テケリリ」を検索しましたら、クトゥルフ神話に登場するショゴスの声、というのも出てきました)。こうした擬音を活かすのは難しいです。たくさんの人たちが、単に言葉が思いつかない、という理由で擬音を使い(と、解釈しています)、不自然だったり、あるいはダサかったり、というのを目にしてきました。擬音は本当に難しいです。また、物理学の知識を書き込むことにも、注意が必要です。昭和から平成にかけての詩壇は実存主義などに憑かれて物理学などは無視してきました。ですが、そうしたことも古くなりつつあります。思想界の主流はマルチバースやシミュレーション仮説などになっていて、これもアナーキズムの一形態かとは思うのですが……ありきたりの物理学の表現は、ただ一つ「シュレーディンガーの猫」というファンタジーがあれば事足りる、という次第で、世界観の表明には「いかに自分が世界を認識しているか」という超個人的な態度が必要になってくるのですね。このサイトでは、アラガイsさんが繰り返し言っているスタンスです。通して感じられるのは、中原中也のような透徹した孤独(ただ、孤独のどん底を未だ見ていないようには、感じられます)。個人的に、「物理学や形而上学を押し切って自分の人生の表明をする」といった格闘を期待するものです。全体的に絶望と希望が交錯していて、こういう不安定さをあえて安定と感じさせる手法は、実は難しいのかな、と思っています。感性でそれをなしているのであれば、今後は自分の感性が枯渇しないようにする努力が必要でしょう。ただ、温かみがあり、令和の文学にあっては必要な要素かと思っています。