五行歌、未完 顔顔/ひだかたけし
朧月夜さんのコメント
いや、誰なんだよ? そこで立ち止まりますか? いや、それは「誰」は「誰か」であり、必然的に現れて来た「誰」なのでしょうけれど、いつものひだかさんの姿勢からは少し突き放された開放感があって、申し訳ありませんが、笑ってしまいました。こんな感じの詩がもっと多く書ければ、少しは楽に生きられるのでは? 表現も進歩するはずですよ。このポイントは礼儀ポイントで、評価としてのポイントではないとお考えください。

返信をありがとうございます。ちょっと客観的に見、書いてみたくなったのです。ご不快を感じられましたら、多分わたしの表現が適切ではなかった、言葉足らずだったということであり、申し訳なく思います。「笑う」はたしかに侮蔑を意味するときもありますしね。注意深く使わなくてはいけない表現であるとは、思っています。
---2024/04/04 13:24追記---

わたしの使った言葉のニュアンスが、ひだかさんとわたしとでは異なって感覚されたのでしょう。不適切な言葉をかけてしまったかと思い、それについては反省いたします。ご意見はいつでも貴重なものです。今後コメントを書く際に生かさせていただきます。
---2024/04/04 18:19追記---

お考えを伺い、再度読み直したところ、この詩はわたしが最初に感じたよりも奥深いのでは、という感慨を持ちました。このようにわたしの考えが変わること、インターネット上のSNSの特性としてどうかご容赦ください。先に、「このポイントは礼儀ポイントで」と書いたこと、取り消すとともに、評価(わたしにそんな資格があるとも思えませんが)、としてのポイントである、と訂正させていただければと思います。

---2024/04/04 19:47追記---

再度のコメントを受けて。(最近のわたしは、とみに体調が悪く、自分が書いたことも何度も読み直して確認している次第で、メッセージのやり取りにおける齟齬があれば、申し訳ありません。この詩(「五行歌、未完 顔顔」)における「誰」は、もちろん主語でもなく、発話者(作者)における問いかけによって、初めて現れてくる「誰」なのだと解釈します。
詩とは短い文章表現ですが、そのなかですら、「詩を書いていく」という時間的な変遷によって、随時現れてくる「何物か」「何者か」というものが、必然的に派生するのです。わたしはシュタイナーについては詳しくなく、ひだかさんご自身が感覚されているお考えには直接アクセスできません。ただ、一次的な対象物としての文面から感じ取れる「誰」の存在は、やはり唐突なものであり、読者によっては「スラップスティックさ」を見てしまうものであろうと感じます。この「誰」の存在はやはり重要ですね。なぜ作者が「誰」を持ちだしてきたのか、「誰」と表現しなくてはいけない理由はなんだったのか……そういうことを考えざるを得ないのです。
わたしが思わず「笑って」しまったのは、そうした理由によります(わたし自身は滅多に笑ったり泣いたりするということがなく、このことはわたしにとってはある種のインシデントだったのです。ために、わたしの最初のコメントがひだかさんの不快を招いてしまったこと、申し訳なく思います)。
ううん、やはり「現代詩」を味わうということ、わたしはますます迷うのですよね。常日頃言っている通り、批評は批評論であり(コメントに関しても同様のことが言えます)、現在においては文学における歴史的な解釈や、典拠といったものは、むしろ害悪になる可能性もあると考えています。なので、わたしは作品としての批評においても、むしろ、そしてつねに、「あいまいな表現」を心掛けています。──そういったことを踏まえて、この詩の面白さはどういった点にあるのでしょうか。わたしは、例えばひだかさんの詩を読むとき、「竹」についての繰り返し繰り返しの叙述を行った萩原朔太郎の執筆姿勢を鑑み、それに沿った姿勢で詩を読む、ということをしています。「表現も進歩」と書いてしまったことも、そうした一作家の著述史における「漸近的な変化(と繰り返し)」を思ってのことなのです。「お前、進歩しねーな」といった暴虐な見解ではなかったこと、どうかご理解ください。
わたしが笑ってしまったことにおける「インパクト」、思い返してみたのですが、やはりこの詩にはあると思います。ひだかさんの詩史における、進化あるいは変化、ですね。それがやはり、この詩にはあると思います。どの作品だったかは記憶していないのですが、ひだかさんの詩を、(建築における)「ファサード」を連想させる、と書いたことを記憶しています。その時の作品を読んだときに感じたのと似た感慨を、この詩には抱いたのです。当初「評価ではない」と書いたことは、改めて訂正させてください。わたし自身が戸惑っていたのでしょう。そして再度、この詩における面白さはどういった点にあるのでしょうか。わたしはわたし自身が「笑った」という事実に基づいて、解釈させていただきますが、この詩のタイトルにおいて「未完」と記されていること、いつにもまして作者における積極的・能動的な叙述がされていることから由来される、一種の「唐突さ」「不完全性を基にした驚き」といったことが表現されているような気がします。わたしは、この詩はひだかさん自身の詩史において、やはり変化を示していると感じられるのですが……先走った見解でしたら、スルーしていただければと思います。
何度も読み返してみているのですが、2019年以来というひだかさんとのお付き合いに鑑みて、この詩は(この詩も、という表現がより適切でしょう)やはり、ひだかさんの変化を表しているように思えますよ? 再度のご意見・反論などもお待ちしております。まずは何よりも、ご健康にお気をつけて。さらなるご活躍を期待しております。
---2024/04/05 03:02追記---