失くした頁ほど読み返したくなるものだから/ホロウ・シカエルボク
朧月夜さんのコメント
冒頭の文を読んで「いつものホロウ・シカエルボクさんが帰ってきた」と思いました。ですが、読み進むにつれて、「現代」に妥協しているホロウ・シカエルボクさんの姿勢も見えてきて、「それは良いのですか?」「それで良いのですか?」という疑問も湧いてきて、もちろん「現代」に迎合しなければ、表現というのはあり得ません。ただ、文学界から無理解のまま夭折した詩人のようなストイックさ・堅実さを、どうしてもわたしはホロウ・シカエルボクさんに求めてしまうのです(それは、詩人に「不幸たれ」と言うことですから、明確に悪でしょう)。ただ、この詩のなかには「老い」の表現を感じました。それで良いのですか? わたしはホロウ・シカエルボクさんの詩のなかに年齢不詳の反骨精神を感じたいと思っています。もちろん、詩は作者のものであって、読者のものではありません。この稚拙なコメントがホロウ・シカエルボクさんの姿勢を変えるとしたら、わたしのコメント自体が間違っているのでしょう。「わたしは解釈しきれたのか? 共感しきれたのか?」ということを改めて問うものなのです。きっと、そのような「問い」を喚起することが、良い詩なのでしょう。いつも通り、共感とか解釈を排したコメントですみません。

返信のコメントをありがとうございます。ますます分からなくなりましたが、また時間をおいて読み直してみますね。多分、その分より深く感じられるだろうと思いますので。これ以上は批評として(稚拙なものになりそうで怖いのですが)仕上げたいので、沈黙しますね。またいろいろと質問させてください。
---2024/03/24 22:25追記---

あ。お体お大事に。
---2024/03/24 22:32追記---

読み直してみました。「詩は絵だ」という言葉をあらためて踏まえて。わたしは記憶はイメージなのだろうと考えているのですが、多分そうではない人たちもいて、記憶は言葉である、または記憶は記号である、という人たちもいるだろうと思うのです。ですが、ホロウ・シカエルボクさんが詩を絵として表現している、とおっしゃる以上、それはイメージとしての「現在の記憶」の正確なトレースではないのか、ということを思います。ですが、問題はそこではなく、ホロウ・シカエルボクさんにとって「現在の記憶」が膨大な量を持ってしか表現(再現)し得ない、というところです。……この後はまあ、批評に書きます。中途半端な感想ですみません。
---2024/03/25 19:13追記---

ホロウ・シカエルボクさん、アラガイsさん、再コメントありがとうございます。

アラガイsさん、あなたもわたしを誤認していますよ。わたし自身は、記憶の形式とは、そして自然認識でさえも、その個人によって異なるものだと思っているのです。アラガイsさんとわたしの認識している宇宙が対峙する。マルチバースという世界観を排除すれば、その「世界認識」=「経験」が対峙する。そこには、むしろ対立が存在しなくてはいけないのです。ホロウ・シカエルボクさんも過去のコメントで、人間とはディスコミュニケーションの存在だと、おっしゃっていました。その「ディスコミュニケーション」という言葉・認識、重いと思いませんか? わたしは今までオピニオン・リーダーになりたくないためにコメントなどはあえて書かずに来ましたが、今言語に対して再認識することはわたしにとって喫緊の課題であり、「詩を読む」というコミュニケーションをすること、このサイトがSNSであるという前提に基づいて、甘えさせていただいているのです。「芸術は自然を模倣する」ではなくて「自然は芸術を模倣する」については、もちろんわたしもそのような考えは持っております。

ホロウ・シカエルボクさん。再度のコメントをありがとうございます。なんとなく、ホロウ・シカエルボクさんの「作法」というものが見えてきました。ここから後を記述するには、批評=作品、というわたしなりの即興を必要とするのでしょう。ですので、今は再コメントをいただいたことにかんする感謝のみにて。再コメントにおいていただいた考えは、膨大なものになります。次作のコメントについても。
---2024/03/31 19:12追記---

※ホロウ・シカエルボクさんの詩とはまったく関係のないコメントを削除しました。
※アラガイsさん。やはり、続きの討論は会議室などでしましょう。

---2024/04/03 09:19追記---