光輪の途行き(改訂)/ひだかたけし
朧月夜さんのコメント
「死の影の谷」というと、どうしても堀辰雄が連想されるので(「風立ちぬ」などをご参照ください)、今一歩そこから踏み込んだ表現が必要なのではないのかなと思ってしまいます。「いや、この詩はこの詩で完結している」という意見もあると思うのですが、「死の影の谷」という表現をしたことは、やはり安易では? という感が否めません。文学という一つのミームを土台としたうえで、この表現をするのであれば、もう一歩踏み込んだ「ひだかさんにしか出来ない叙述」が必要なのでは? と。ここで注記しておきたいのは「表現」と「叙述」の違いですね。この詩においては、「叙述」が「表現」に達してはいますが、「死の影の谷」という言葉によって、「安易?」という疑問に至ってしまうのです。これは、単純に、純粋に、文学というミームにおいて、そうした表現が百出している、という事情によります。著者があえてこの表現を選んだのであれば、という逃げ道もあります。ですが、「他の表現も可能だったのではないか?」という点において、百戦錬磨のひだかさんにあっては、少し物足りない表現かと思うのです。

追記。もちろん、ゴリ推しするのもアリですよ。わたしも、中途半端に「安易」と言っているわけではないのです。ですが、「死の影の谷」というのは元々聖書の表現ですので、そこから一歩踏み込まないと、単なる模倣・真似・勉強として終わってしまう、という危機感も感じるのです。ポイントを付けさせていただいたように、この作品は佳作だと思います。ですが、詩に慣れていない読者一般にとってはどうでしょうか? 「この作者の表現は安易だ」と、思われてしまわないでしょうか。広告業が本業のわたしとしては、ひだかさんにもっとオリジナリティー・独創性を追求してほしいのです。もちろん、それは詩の本質ではありません。単なるコマーシャリズムからの欲求です。ですが、この時代、「売れたい」という思いはむしろ尊くないですか? それはコミュニケーション・交感を求める気もちの反映だと思うのです。
---2024/03/16 23:28追記---

再度のコメントをありがとうございます。会議室の発言と見比べながら、もう一度考えてみました。コメントの重みを感じます。それほど社会を憎んでいるのか……と言ったら、誤解・脱線でしょうね。ですが、一見そのようにも見えてしまう。ひだかさんの詩作はまさに戦いなのですね。ですが、こうした表現(「詩との格闘」と書いたでしょうか)にも、異議を唱えられていましたね。一つ一つの言葉が、そこでどのように違うのか、わたしとしては迷ってしまう部分もあるのですが、とにかく生きるために詩を書かれているのだろう、ということは感じます。わたしは、この二十年で社会が大きく変化したことを感じています。良くなった部分もありますが、大方は悪くなりました。ロシアとウクライナの戦争が始まって以降、社会の「不穏さ」は顕著です。イラク、エジプト、リビア、シリアで戦争があった時代には、人々は一様に押し黙っていたのに、ウクライナというヨーロッパで戦争が起こった途端に「平和」や「戦争反対」が一斉に唱えられ始めたのはなぜなのでしょうか。そこに、わたし自身としては平和の裏に隠された悲劇にたいする無自覚を感じてしまうのです。人は対岸の火事であるうちは悲劇を認識しない。そして、己の危機を知って初めて言葉を発し始める。人はなぜ、例えばインドなどに残るダリット(階級差別)などの存在から目を背けるのでしょうか? LGBTさえ擁護すれば、それが平等なのでしょうか。女性の人権すら、まだ現実問題としては確立されていないように思えるのに。平和とは何でしょうか? 単なる安心でしょうか。果敢な人は、深刻さと安逸とが紙一重で隣り合わせているものだということを、表現してきました。ひだかさんとメールを交わしたおかげで、わたしはひだかさんの人生の一部を知らされておりますが、それでもまだ真の理解には至っていません。「それまで存在していなかった永遠がこの瞬間と共にその存在を開始する」ですか。キルケゴールの言葉なのですね。わたしは哲学者の言葉には詳しくありませんが、その言葉自体には19世紀の物理学に対する反抗という意味合いもあるのでしょうし、そこから何かを引き出すとしたら、世界の再認識が必要になってくるように思えます。「永遠」には二つの意味があり、一つは「時間の排除」、もう一つは「時間の反復」です。そうしたことをもとにして再度詩を読むと、例えば「律動」という言葉や、終行の「死の影の谷 優雅厳粛に越えゆく。」という言葉に別の意味が見えてきます。詩人が自作を解説することはヤボだという意見もあるようですが(創作の苦労は隠せ、というのが彼らの姿勢であるようです。商品としてはそうなのでしょうが、本当にそうなのでしょうか? 一流の作家はむしろ自身の苦労を語っていると思っております)、まだまだひだかさんの詩を真に理解するためには、ひだかさん自身の言葉・解説が必要になってくるように感じるのです。もう一度、それが浅い言葉になっていましたら、申し訳ありません。「迎える春に」などと比べると、この作品はやはり「佳作」であるように感じます。「秀作」ではないという意味においてです。ある作品を持ち上げ、ある作品をディスるということは愚劣ですから、そうした意図はないのですが……。ひだかさんの詩の読者がこの詩を見て何を想うのだろう? ということに再度関心を持つものです。
---2024/03/20 22:31追記---