メモ1/由比良 倖由比良 倖さんのコメント
>鵜飼千代子さん
ありがとうございます!
そうなんですよね、あれもこれも肯定しようと頑張っても、あまりうまくいかないことが多いです。
自然な「肯定力」を上げられたら、最強ですよね。
ネガティブなときに、気持ちをくるっとポジティブに出来ればいいんですが、
なかなかそんなお手軽な方法や、魔法みたいな言葉は、僕には見付けられません。
でも世の中には「これであなたも幸せに!」みたいな宣伝文句や商品に溢れている気がします。
僕もYouTubeなどで、幸せになる方法、みたいな動画があると、ついつい見てしまいます。
けれど、あれこれ物や考えに縋ってみても、焦りとか不安とか、暗い気持ちはなかなか晴れません。
救いようの無い言葉なんですが「結局は運なのかな」と思ったりもします。
でも個人的には、言葉を書くときだけは、きちんと書いて、
普段はあまり言葉では考えない、ということは、割と効果的だと思っています。
自分の頭の中の言葉なんて決まりきっているのだから、もっと他の人の言葉に耳を傾けた方がいいな、と考えてもいます。
少しずつ、人と話せるようになってきて、詩や小説を読めるようになってきたことは、とても嬉しいです。
ともかく、鵜飼さんに読んで頂けて、とても嬉しいです。
鵜飼さんも、出来れば楽しく過ごしていてください。
ありがとうございました。
*追記
どうも、ご心配をお掛けしてすみません。そしてありがとうです。
「今から死にます、さようなら」みたいなことは、十中八九書かないと思います。
少し嫌な意味でも大人になったのかもしれませんが、すごく死にたくなっても、
「鵜飼さんを困らせても何にも世界は良くならないぞ」とか、
良く言えば冷静なような、悪く言えば諦めているようなことを一端考えて、
感情と言動の間にワンクッション置くような癖が身に付いている気がします。
でも、あまりに誰にも自分の感情を誰にも吐露せずに、
クッションをもこもこ置きまくって、自分の中に気持ちを溜め込んで、
例え死ぬほど辛くても笑っていたりなんてしていたら、
あるとき臨界点を超えて、急に喚いたり暴れたりしてしまうだろう、と予想出来るので、
母にはけっこう小出しにして「辛い、苦しい」と言っている気がしますし、
この散文でも書いた友人には、盛大に愚痴っていると思います。
鵜飼さんにも、愚痴っぽいことを言ってしまうかもしれないです。
愚痴を言う元気さえ無くなって、生きることも全部無意味で空虚に思えるときは、
どうすれば回復出来るのか分からずに、もう駄目だと思うことが多かったのですが、
最近は、頭が働いていないのではなく、逆に頭がビジー状態(ぐちゃぐちゃ)だから、
何も考えられないのではないか、と考えています。
部屋を出来るだけ暗くして、お香を焚いたり、静かな音楽を流したり、
あるいは防音のイヤーマフを付けて、ひたすらぼーっとしていると、
心の端にぎゅーっと押しやられていた、自分の中の元気な部分が、
ゆっくりと解放されてくるのを感じることがあります。いつもうまくいくとは限らないんですが。
心が本当に死んでいたら、苦しさも無いと思うので、
ある意味では完全に現実逃避して、心が自然に回復するのを、気長に待つのがいい気がします。
無理に生きようと思わなくても、生きたい気持ちは、常に自分の中にあると思います。
少しやばい感覚や、暗い感情が「来たな」と感じたときも、
やっぱりいろいろ考えたり、打開策を探すのではなく、一時的に思考停止するのが、
一番効果的なのではないか、と個人的には思っています。
あと、(すみません、また延々自分のことを書いています)最近とても嬉しいので、
再三書いていることなのですが、音楽と言葉をまた本当に好きになれたことは、
特にまた音楽を聴けるようになったことは、僕の中では相当に大きな、幸せな出来事です。
口癖のように「不安だ」「恐怖」「死」など、暗いワードを並べていると思うのですが、
音楽に浸かりながら、ただただタイピングしている最中は、実のところ快感や、
「楽しい」の気持ちに、とても近い場所にいたりします。
本当に苦しいときは、何ひとつ書けません。
何も出来ないとなったら、本当に鵜飼さんにうだうだ言いにいくかもしれないです。
でも、苦しいときは、羞恥心や自己嫌悪も強いので、言いかけてやめてしまう気もします。
どちらかと言うと、もっと楽しいことを書くためにお邪魔させて頂くかもしれません。
今、すごく楽しくて気持ちいい場所に行けるのではないか、と少しわくわくしています。
少し前、友人に「生きられるかもしれない」「生きていきたい」というようなことを、
いい言葉だと思って連呼していたら、彼は少し考えて、
「生きる、という言葉もあまり使わない方がいい気がする。
何となくそれは、自殺願望が今は無いだけに聞こえるし、
本当に生きたいなら、具体的に楽しいこととかを言葉にした方がいいんじゃないか?」
ということを言われて、そういう考えもあるんだな、と気付きました。
彼は、非常に若い頃から、言動がものすごく大人っぽいのですが、
何処でそんなきちんとした人格を身に付けたのか、いつも不思議に思います。
(蛇足でもあるんですが……彼は、僕よりも読書家なんですが、本から得た知識を並べている感じは無いし、
考え深いのに、自分から考えをぺらぺら喋ることは無いです。
仕事に忙しい彼の心身がいつも心配なのですが、彼は精神科とはまるで無縁で、
自分が楽しい時間はきちんと確保しているし、休みの日はバイクで遠乗りしたりしてて、
えらくタフです。礼儀正しすぎる位なのに、必ず人を和ませるし、
家事も料理も裁縫も得意で、……と決して理想化している訳ではなく、
「こんな人も世の中にはいるんだなあ」といつも彼には驚かされます。
僕には、他にも大切な人たちがいて、それぞれ素敵な、大好きな人たちですが、
そもそも彼に出会わなかったら、僕は他人の存在自体がどうでもいいままだっただろうと思います。
僕は自分を、非常に運のいい人間だと思っているのですが、
良い意味でもっと大人になりたい、そしてもっと幸せでありたいと思っています。
……コメントから逸脱して書き過ぎていますね……。)
幸せって、頑張って努力して得られるものというよりは、本当に、感じるものですよね。
友情にも似ていて、あるとき、ふと「ああ、自分って幸せなんだ」と感じます。
生きていることは本来幸せなのだと思います。
鵜飼さんが、幸せを感じていられるなら嬉しいです。
どうか、心身を大事にして、旦那さんにもいっぱい感謝して、お元気でいて欲しいです。
*追記2
こうやって、鵜飼さんに向けて、言葉を書いていられるっていいな、って思うし、
鵜飼さんが幸せでいられるなら、本当に嬉しいです。
僕にも難しいことで、あまり偉そうに言えることではないのですが、
悲観的な言葉は「ふーん」って聞き流せばいいと思います。
僕は、自分の母が元気で楽しそうなら、それだけで嬉しいです。
知り合えるだけで楽しくなれるような人は、案外たくさんいると感じます。
僕はコミュニケーションが下手すぎて、素敵な出会いを、うまく育んでいけなかったことも多いですが、
でも、そういう人もいるんだなあ、と今思い出すだけでも、世の中は捨てたものじゃないと思います。
この頃、書きたいことがいっぱいある気がします。
本当は、もっとゆるーく、肩の力を抜いていたいんですが、まあそれはその内どうにかなるでしょう。
これからも、よろしくお願いしますね。
>由木名緒美さん
ありがとうございます。嬉しくて、笑ってしまいました。
人でなしですね。人になりたかった、そして現在形で人になりたい人でなしです。
友人には、今も本当に感謝しているし、今でもよく会ったり話したりしているのですが、
直接、彼に「感謝してる」なんて言うと、「感謝なんかされる覚えは無い」ということを、
本気で言われるので、こうやって、こっそり(でもないか)感謝の言葉を書いています。
一番自分を受け入れてくれる人には、もっともっと構って欲しくなってしまうのでしょうか。
何でも許してもらえる、見捨てられない、とある意味とても信頼しているのに、
もっと構って欲しいアピールが、完全にずれているのかもしれません。
病気(人格?)がひどいときって、気長な人間関係を結ぶことがとても難しいですね。一番難しいことかもしれません。
そういうときは、気分の上下が激しすぎて、少しのことで、どん底の気分を味わってしまいます。
どん底になると、自分のコントロールが出来なくなって、言動が滅茶苦茶になって、
しかも自分ではそのことを忘れていたり、正当化したりしてしまいます。最悪です。
「さっきは本当にごめん」と素直に謝ればいいのに、相手の前でぷちぷち薬を出して、
たくさん飲んでみたりとか。
普通はそこで、人間関係を切られると思います。付き合いきれないです。
「そんなことを続けてたら、友達をやめる」と冷静に言ってくれる友人は、
それこそ天使だと思います。
集合意識(無意識?)として、誰もが平和に繋がれたら、と時々思います。
言葉は不便すぎるし、言葉があるから苦しい、と思って、言葉を捨て去りたいときもあります。
でも、言葉を使うと、人と想像の領域で繋がることも出来ます。
自分の中で、あるいは人との関係の中で、言葉をじっくりと耕していくような感覚は好きです。
「好き!」とか「嫌い!」とかじゃなくて、よく考えて言葉を発して、
同時に書かれた言葉や、会話での言葉を、よく読んで、聴いて、想像して、
完全に理解は出来なくても、少なくとも理解しようと努めることが、
少しずつ人との、そして自分自身の、世界観のようなものをゆっくりと形成していくのではないでしょうか?
例えば、「好き!」っていう感情が1秒で、ぴぴって伝わったとしても、
それは表面的な感情に過ぎなくて、世界観の形成や、物語の創造には繋がりませんよね。
言葉は不便で、人を傷付けることにも使えて、誤解やすれ違いの原因にもなるし、
伝達手段としては緩慢で、即効性はあまり無いのですが、
同時に、世界を拡げたり、物語を作り上げていくためには、最適のものだと思います。
世界や物語に意味はあるのか、と言えば、別に意味は無いと思うのですが、
世界観や物語や、つまり想像でしか辿り着けない、ものすごく遠い場所や、深い場所や、
平和な場所、美しい場所は、あると思います。
だから詩や小説は好きですし、人のことを祈るように思うことも好きです。
言葉の無い世界は、故郷みたいなもので、言葉のある世界は、新しい世界、という感じでしょうか。
うまく言えないのですが、言葉の無い世界は、とても楽だから好きで、言葉のある世界は多難ですが、
ゆっくりと何かを作り上げていけるし、新しい場所に行ける感じがして好きです。
愛は既にあるものでもあるし、新しく作り上げていけるものでもあると思います。
(本当にうまく言えなくてすみません。言葉と、言葉以外の、ふたつの領域があると思っていて、
そのふたつを統合するにはどうすればいいのだろう?、とよく考えています。)
睡眠薬は、サイレースだけですが飲んでいます。
お守りみたいなものですね。
昔はベゲタミンAを一日二錠飲んでいて、友人に騙して飲ませたりしたんですが、
今は、眠れなければずっと起きていればいいや、というスタンスでいます。
由木さん(が名字で合ってますよね。僕の名前は「由比」が名字っぽくも見えるな、と長年気付かずにいました。と言うことはともかく、由木さん)は、頭がおかしいとは思いませんが、
いろいろな苦しさを体験してきたのではないかと思います。
僕は割と適当に生きてきた気もします。その場しのぎというのか。
大切な人や、本や音楽などとの出会いのおかげで生きてこられたと思うので、
とても運が良かったと思っています。
僕自身の力はほぼ無いし、性格も多分悪いです。いろいろと良くなりたいとは思っていますが。
たいへん長くなってしまいましたが、ありがとうございます。
読んで頂けて、本当に嬉しいです。
由木さんも、お元気でいてくださいね。
>アラガイsさん
ありがとうございます。感謝です。
この文章は、本当にだらだらしていて、くどいと自覚しているのですが、
長すぎて、推敲する気力が湧かなかったので、全部そのままにしています。
とにかく、頑張ってます、という努力の姿勢だけでも伝わればいいな、という不遜な意識で投稿したので、
「読者のことを全然考えていない」というお叱りの声を頂いたなら、謝るしかない、と思っていました。
(投稿したときは、少しハイだったんです。)
なので、単純に、長く書いたことに、お誉めの言葉を頂けたのは、かなり嬉しいです。
内容は、おそらく矛盾している部分も多いと思いますし、吟味されると、
突っ込みどころがとても多いと思うので、気弱なのですが、ざっと読んで頂けた方が有り難いです。
恥ずかしい文章だと思っているので、内容についての説明は難しいかもしれません。
努力賞を頂ければ幸いです。
今は、とても不安で、何を書いても卑屈な感じになりそうなので、
このコメント欄でも、これ以上言葉を重ねたくないのですが、
書くことが楽しい、という感触は、少しだけ取り戻してきた気がします。
まだまだ書けそう、という前向きな気持ちと、言葉のない世界に行きたい、
という、疲れた、逃避願望のような気持ちが、混ざり合っています。
言葉と、言葉以前(以後)の世界をもっときちんと統合したいし、もっと全体をひとつのヴィジョンとして、
一貫して書けたら、と思うのですが、このような、混乱気味に書き殴った文章は、
これはこれで、今しか書けないかもしれない、と思ってもいます。
まだ、もっともっと、楽しくなれるはずだ、という希望と、それ故の焦りもあります。
文章中にも、とても前向きなところと、急に落ち込んだところがあって、
脈絡があまり無い気がしています。
基本的には希望を書きたいと思うのですが、うまくいかなかったような気がします。
病気のことや、露悪的なことを書いたのは、かなり久しぶりで、実のところ、
痛々しい部分が、一番楽しく書けた気もして、それもあまり良くないのかな、と思います。
文体についても、文脈や、文章のリズムなどについても、課題が沢山あります。
でも、出来れば書き続けていきたいですね。
小説も書けたら、と思っているのですが、先行きは不透明で、長い道のりになりそうです。
本当に、読んで頂けて、有り難いです。