続いているもの/眠り羊眠り羊さんのコメント
あおばさん
コメントありがとうございます。
ドイツだったらどうなのかな…とぼんやり考えています。
孤蓬さん
私が言っているのは、一人ひとりのことです。完全に同じ経験をしている人はいないのですから。
「私たち」って誰なのか…。
前からずっと思っているのですが、孤蓬さんご自身のお考えというものはおありなのでしょうか?
---2015/08/16 追記---
To err is human, to forgive divineという有名なことわざにもありますように、人間は間違える生き物であるということに関しては、まったくその通りだと思います。
しかし、どんな立場を取った人でもすべて同一に「私たち」という言葉で一括りにする、ということには同意できません。
「戦争をよしとしない人」について。
国が戦争の遂行を命じている時に、戦争に反対した人が「非国民」と呼ばれた場合、その人を「戦争をよしとしない人」と言うか、「国の政策に反対した人」と言うか。
「国の政策に反対した人」と言ったほうがより正確なのかもしれませんね。敵国の文化に親しむだけで「非国民」と呼ばれたこともあったようです。
戦争をしたがる人がいるかどうかについては、ご自分でお調べください。同盟国の産業も含めて考察されることをお勧めします。
戦争をする際に、戦争をしたいからするのだと言った国があるでしょうか?
どの国も、戦争の際には、正当な理由があると主張するのではありませんか?
---2015/08/16 追記---
『どんな立場を取った人でもすべて同一に「私たち」という言葉で一括りにする、ということには同意できません。』
上記は、引用の意図がわからず、「私たち」とは誰なのかという私からの問いに対して、「貴台も私も含めた全ての人間です。」と答えた孤蓬さんに対して向けられた言葉です。
人間は間違える、そこから、そしてこれからも間違え続けると、私は言いたくありません。間違えたなら、また同様の間違いを繰り返さない努力が必要だと考えます。私たちは間違える、そういうものだと言ってしまえば、誰が何を間違ったのかはうやむやのままになり、再発防止はできなくなります。
「われわれは自分の反対者を悪者や陰謀家に仕立てる」という言葉は、『安保法案を「戦争法案」と呼んだり、現政権を「軍国主義」と呼んだりするのは、判断力に問題があるか、アジテーターやデマゴーグの類であろうと思います。』と仰る孤蓬さんにぴったり当てはまっているようです。
---2015/08/16 ---
引用元の文章には、「私たちは間違える存在ですが、また同時に間違えたことを忘れる健全な存在でもあります。だから再び三度間違えます。これからも間違えるでしょう。騙されるのではありません。間違えるのです。」とあります。
引用の意図がわからず「私たち」とは誰なのかと尋ね、それに対し「貴台も私も含めた全ての人間です。」という返答があったため、孤蓬さんは引用された文章全体の主語としてそのように考えていると受け取りましたが違ったのでしょうか。
紛らわしいので、引用元と考えが違う部分があるなら違う部分があると明示してください。
「お互い」と言われても、そもそも孤蓬さんはご自分に間違いがあったと思っているのですか?
『安保法案を「戦争法案」と呼んだり、現政権を「軍国主義」と呼んだりするのは』というところ、一般論を仰っているのだと思っていました。私個人を指して、判断力に問題があると疑っているということなのですね。
でしたらなおのこと、「お互い」なんて言われたくありません。結局のところ、ご自分は正しい側にいて、それに反対する人間は馬鹿だと言っているようなものでしょう。
---2015/08/16 追記---
先に『人間は間違える、そこから、そしてこれからも間違え続けると、私は言いたくありません。間違えたなら、また同様の間違いを繰り返さない努力が必要だと考えます。私たちは間違える、そういうものだと言ってしまえば、誰が何を間違ったのかはうやむやのままになり、再発防止はできなくなります。』と書きました。
これは、孤蓬さんが引用された文章の、「私たちは間違える存在ですが、また同時に間違えたことを忘れる健全な存在でもあります。だから再び三度間違えます。これからも間違えるでしょう。騙されるのではありません。間違えるのです。」について、自分は同意しないという意味で書いています。
主張の論拠が拙劣とのことですが、孤蓬さんには主張がおありですか?
---2015/08/16 追記---
同じ文章に対して、「私もそう思います。」と述べておられた方が、どうしたことでしょう。
私は、自分は二度と間違えないなどと言っていません。また、孤蓬さんが引用された文章からは、間違いを繰返さない努力をするという趣旨の内容は読み取れません。
毎度ながら、恣意的な解釈はおやめください。
「私の主張は、これまでの私の言辞の数々に充分顕現している筈ですが、お解りになりませんか?」とのことですが、さっぱりわかりません。考えを尋ねても答えず、いつも言葉じりをとらえて(あるいはご自分の勝手な解釈で)攻撃するか、他者の文章を引用するか、どちらかをしている印象しかありません。
---2015/08/17 追記---
松岡真弓さん
ありがとうございます。
孤蓬さん
もちろん、引用元の文章が、間違いを繰返さぬ努力をわざわざ否定している文章ではないということはわかっています。
しかし、間違いを繰返さぬ努力をすべきとは、どこにも述べられてはいませんし、「私たちは間違える存在ですが、また同時に間違えたことを忘れる健全な存在でもあります。だから再び三度間違えます。これからも間違えるでしょう。騙されるのではありません。間違えるのです。」と、むしろ「間違える」ことを肯定的に捉えていると受け取れる文章で締め括っています。
私が当初から言っているのは、人間は間違える、そこから、そしてこれからも間違え続けると、私は言いたくない。間違えたなら、また同様の間違いを繰り返さない努力が必要だと考える。どんな立場を取った人でもすべて同一に「私たち」という言葉で一括りにして、私たちは間違える、そういうものだと言ってしまえば、誰が何を間違ったのかはうやむやのままになり、再発防止はできなくなる、だから引用元の文章には同意しない、ということです。
これに対して、単に「間違いを繰り返さない努力が必要」という部分のみに「私もそう思います。」と仰る孤蓬さんは、文脈を無視し、一部を切り取って自分が読みたいように読んでいることを自ら示しています。
また、「もはや二度と貴台は間違えないとお考えですか? 随分と思い切った事を仰るものです。人は、間違いを繰返さない努力をしても、それでも間違えるものですが、その真理を否定なさるのですな。」と、私が言ってもいないことを言っていると決めつけ、咎め立てていますが、紛れもなく恣意的な解釈による非難と言えます。
私はこれまで社会生活上、読解力で特に不自由をしたことはありません。経験上、常人レベルの読解力がないとは言えません。
「孤蓬さんが引用された文章からは、間違いを繰返さない努力をするという趣旨の内容は読み取れません。」と述べた私に対し、孤蓬さんの解釈に沿った解釈をすべきと要求することは、論理のすり替えであり、間違いを繰返さない努力をするという趣旨の内容が読み取れないのは私の読解力、さらには判断力の問題だと責任転嫁をするのは、傲りというものです。
---2015/08/18 追記---
『「恣意的」なのは誰か、まだ自覚なさいませんか。』という問いへの私なりの回答だったのですが、お気に召さなかったようですね。
予想通りといえば予想通りですが…。
その人の人間性は、結局はその人自身が決めるもの。
他者の評をどう受け取るかは、孤蓬さんが決めることです。
孤蓬さんのご意見は孤蓬さんのご意見として読ませていただきます。
『なお、「恣意的」「論理のすり替え」など私がかつて貴台を評した言葉を、貴台が好んで使用なさるのは、心理学の「投射」であり、これも精神を健全に保つ防衛機制です。』と仰っていますが、好んで使っているわけではありません。
使っておられる言葉が、ご自身によく当てはまっていますよという意味で使っています。
---2015/08/19 追記---
孤蓬さんに再々ご紹介いただいた文章によるまでもなく、できるだけ関わりたくないところですが、私が言っていることを理解されていないようなので、説明します。
人間は間違える。
それはそうでしょう。
しかし、個々の間違いを見れば、それは宿命などではなく、原因があります。
原因と結果を偏見なく考察し、学ぶことができれば、同様の間違いの繰り返し防止に役立てることができます。
そのためには、見たくないものもありのままに見る努力が必要です。
間違いを繰り返さないようにと言ったところで、見たいものだけを見ていては、正確な判断はできず、同様の間違いの繰り返しを防げないどころか、新たな間違いを発生させる原因にもなります。
間違えるのは宿命だと言ってしまえば、それは努力でどうにかできるものではなくなってしまいます。宿命に対して努力せよと言っても、それは無理でしょう。
現実的に、同じような間違いを繰り返さないためには、どんな立場を取った人でもすべて同一に「私たち」という言葉で一括りにして、私たちは間違える、そういう宿命なのだとするのではなく、誰が何を間違ったのか、間違いの原因は何かを明らかにする必要があります。うやむやで済ませてしまえば、再発防止はできません。
そもそも何を間違いと捉えるかについて、引用元の文章と私とでは考えが異なりますが。
また、私は、人が意見を変えることを、否定的に考えていません。経験や状況の変化で意見が変わるのは、生きている人間であれば当然のこと、むしろ考えが深まることで意見が変わるなら、好ましいことです。考えを変えることが責め立てられるようでは、硬直化して息苦しくなります。よりよい考えが採用されやすい社会であってほしいと思っています。