ブリッジタウン/ズーアラガイsさんのコメント
高い山に登ったことがないので高山病の苦しみはわからない。高所恐怖症なので吊り橋なんて渡ることになったら相当な覚悟がいると思います。高山病の苦しみはわからないけれど夢のなかではよく落下します。あの瞬間は身震いしてしまいますね。なんだろう。あたまの中では夢とわかっているのに身体が反応してしまう。
以前手術の後、傍らで看病してくれている看護師さんにうわごとを延々と言ったことがあります。内容は夢のようにほとんど覚えてはいないけれど、死を意識したのかも知れない。これまで生きてきた自分の人生観やその無念さを、誰にも打ち明けたこともないような口調でとりとめもなくぐちゃぐちゃと話したような気がします。自意識とは裏腹に、まるで自白剤を飲まされたときのように無意識にぺらぺらと喋ってしまった。ああ、思い出すだけでも恥ずかしさで顔を覆いたくなりますが、そのときの若い看護師さんの上ずったやさしい応答の声は微かに聞き取れました。まだ麻酔が効いていたのでしょうね。危険な範囲の低血圧だったので冥土の淵をさ迷っていたのかも知れません。
もし僕が高山病にかかってしまったらこの詩のような譫言を吐いてしまうかも知れない。何々ゆえに…などとうわごとを呟くのは、たぶん側で誰かの仮名遣いを聞いたからでしょう。
ですが、これだけでは自己認識だけで終わってしまう。冥土に架かる橋の街を家族と彷徨う。無意識を意識して書かれる動機ならば、自身の瞼の裏に潜む解釈は、明白な手法として読み手に伝わらないといけない。と僕は思います。
※書き忘れてしまいましたが、この詩が目に付くのはその精神的な倒錯を念頭に意識されて書かれていることだと思います。