シンボルくん (ご利用は計画的に)/乾 加津也たまさんのコメント
「群像」1月号の髙橋源一郎と保坂和志の対談を読みました。野間文芸賞を受賞した保坂の「未明の闘争」に絡んでとても面白い対談でした。その中で読解力について、理解しようとすることがまず奴隷化の第一歩だと、保坂が言います。小説の読者は自発的隷従の世界にいると言うのです。どのような小説であれ、理解できない不安から逃れるためにその小説にない部分を読解力によって補完しようとするらしい。つまり自分(読者)が納得できるようにです。確かにそれはあると思う。
では、詩の世界はどうなんだろう。ぼくは詩の世界の読者はそこまで隷従的にはならないと思うけれど、カリスマ的な詩人の読者のなかにはあるかもしれないし、読み手が書き手でもある現代詩の世界ではかなり重いテーマになってしまうかもしれない。
髙橋は、小説的自由はいいかげんだけど、詩的自由はもっと緊張感があって厳しいもの、だと言ってますが、ぼくは同じものではないかと思う。小説の場合は、だらだらと長く書くことが許されているからであって、詩も連作詩のように続ければ小説と同じになる。ただ、そこには「小説のふしぎ」もしくは「詩のふしぎ」がなくてはいけないのは当然ですが。
乾さんのこのお作を拝読して、ふたりの対談から発生したぼくの今後の課題が明確に示されたことに驚きました。偶然でしょうか^^
「脈絡のない持続性」というのはふたりの対談の中にあるのですが、ずばり、それがぼくの課題となります。詩であっても小説であっても、その方向性は堅持したいと思うのです。読者の自由、書き手の自由と言ったところで、読者があっての書き手なのだから、互いに自由はないのです。そうなると、書き手のぼくは、ぼく自身の持続性を信じるしかなくて、それを担保に詩や小説を書いているのだと思うのです。
いつかきっと、読者または、自分自身に返済しなければならない「負債」のようなものがあって、作家もまた、隷従的と言えますし、詩人も同じです。
ぼくの場合はまだすべて途上にあるとしか言えませんが、乾さんはどうでしょうか。もし、そうであればエールを交換しましょう。・・そんな訳で、長いコメントになってしまいました♪
---2014/01/20 12:57追記---
「群像」は評論や、対談、書評が面白くて勉強になります♪
一月号では、中沢新一の「南方熊楠のシントム」イチオシです。熊楠に触れると宇宙に放り出されるようで、その感覚がまさに詩の入り口なのです。
あたたかいエールをありがとうございます♪
面白いもの見つけたら、また、どこかでコメントさせてください^^
---2014/01/22 09:54追記---