『或るひとりの嫌われゐしものへ捧ぐる時間(2)』/ま のすけま のすけさんのコメント
■《死を背く》についての続きです。
そもそも、『慣用的』という視点であれば、《死を背く》に描写された意味自体が、すでに
慣用を離れているのではないでしょうか?
「死を背く」も「死に背く」という使われ方も、ネットでの検索結果の件数をもって「慣用」「非慣用」
を判断されるならば、その使用例の少なさは、十分「非慣用」の域にあるとみて良いのでは
ありませんか?
自分は、ここを、『詩歌における、言語定着のための努力(あるいは徒労?!)』との意識をもって
チャレンジしているのですが、もちろんその「チャレンジ」を、受け容れるには時期尚早と
とられたり、この先も受け容れがたし、ととられる方が居られることも受容せねばならぬ
との覚悟の上でのことになります。
さて、少しまた話を文法へ近付けてみます。
『世を背く』という表現が、「辞書に収載されているため」という判断基準をもって、
世の慣用に従っているとの判断については、それはそれで、納得しています。
が同時に、その周辺を考えてみるときに、『世を背く』という小さなセンテンスが
慣用として受け容れられるには、同時代に、その他、類する『〜を背く』という表現が
複数存在していたとは、比較的容易に想像可能なことではないでしょうか?
『世を背く』というのは、意味上「厭世的」とか「出家・出奔する」との意味ですが、
【「世間」という抽象的概念上の範囲《から》、位置情報として逸脱してる行為】とも解釈
出来ますが、【「世間」という抽象的概念上の範囲《に対して》、意識上自発行為として
逸脱する行為】という用法でもあったろうと感じます。
《背く》という語は、漢字表記に「人体」の一部をつかう動詞でもありますから、
語の発生時の使用においては、その「自発性」を強く意識していたようにも思います。
(表記上は、もとが漢語だということは理解した上でのこと)
つまりは、『〜を背く』という使用法の《背く》は、「目的語」以外に、「補語」を
とり得ると考えることは、さほど難しいことではナイという感覚です。
(ただ、その他の表現が辞書に収載されるまでには至らなかったのは事実でしょうが)
次に、《背く》の使用についての、感覚的受容度を問いかけてみます。
以下の用例のうち、辞書収載云々ではなく、どれは受容でき、どれは受容しがたいか
直線上にでも、どうそ置かれてみて下さい。
A 「主君の命に背いた」
A'「主君の命を背く」
B 「法にそむいた」
B'「法をそむく」
C 「社会制度にそむいた行為」
C'「社会制度をそむく行為」
D 「親の期待にそむく」
D'「親の期待をそむく」
あくまで、わたしの感覚というフィルターでですが、C'にはかなり強い違和感、D'には、
エッジが不明確ながらもちょっぴり違和感、A'B'にさほど違和感は感じられません。
でもね、実は少しズルしているんですよね。
D/D'以外、A/A'〜C/C'は、「背いた」を「背く」と少し文語に寄せてあるのはお気付きに
なりましたでしょうか?
B/B'の「法をそむく」を「法をそむいた」と、置き換えてみると、ひょっとしたら
違和感を感じる方が増えるのかも知れません。
《背く》という語は、「曖昧な範囲をもつものに対しては、文語的な制約(手間や時間短縮
というルール)の上で用いられる場合には、その曖昧な範囲を<補語>と置くことが許される」
のではないか。
というのが、整理してみた段階で、ひとつ、私の中に導き出された結論でした。
それに照らすと、「死」という語は、行為としての<死ぬ>という意味を担うとともに、
穢土浄土の境界を浄土の側へ超えたという<曖昧な範囲>をも持ち得る言葉ですから、
私にとって《死を背く》という表現は、受容ギリギリのラインというよりは、もっと
余白を持って容認が許される使用との感覚でした。
----------<「背く」という語からのアプローチ>
助詞「に」「を」については、後程。
(ひょっとしたら、明日の夜になってしまうかも知れません)