『或るひとりの嫌われゐしものへ捧ぐる時間(とき)』/ま のすけ
ま のすけさんのコメント
  まず、確認事項。
  (キミには、論に危くなるとズルく逃げようとするというクセがあると、
   私には映ってしまっているため)

  ■キミは俳句に関して、対わたしには素人同然だと認めている。

  ■「文語は死語だから、これ以降に変化はない」とキミはこのフォーラムの中で
   複数回、書いている。

  ■《言語》特に文語文法において、「正解」というものが存在するとキミは考えている。

  ■権威ある国語学者の私見をもって、それを文法の「正解」とキミは定める。

  ■ネットで検索して、12分の1以下でしか対立候補が出てこなければ、
   その12分の1以下の候補は、誤用である。(あるいは無視しても差し支えない)


     ここまでで、否定する箇所があれば、書いて下さい。
     たぶん、「国語学者云々」の項は、修正のあるところでしょう。
     どうぞ、キミの言葉で、書き記して下さい。
---2010/07/13 02:54追記---
---2010/07/13 09:00追記---
   いや、そのすべてに答えてあげるために、こちらをつくりました。
   前回のページの<作者コメント欄>に、長々と書いたのですが、文字数制限にかかり、
   すべて消えてしまいました。
   ですから、あらためてこうして場を設け、キミの誤りや、認識の誤謬に、コチラ側からの
   意見を述べさせていただくつもり。
   まずは、上記の5項目について、「認めて頂く」か、「修正意見を記載」下さい。

   そっから、やってあげるから。

   自信がおありなら、どうぞ、まっすぐ、逃げずに向き合ってみて下され。
---2010/07/13 22:22追記---

  ありがとう。
  まっ、書く度、少しずつ用いる言葉が変っているのは、キミの中に在る《文法》や
  《言語》に対しての、ある種の「揺らぎの幅」と、許容しておきます。
    (自信のなさやズルさとは取らずにおきますという意味です)
  《数学》は、ある意味で「言語」だが、《言語》は「数学」ではないからね。
  キミの用いる一語一語には正確な《定義》が得られなかったものと、進めていくよ。
  ただし、必要を認める場合には、これまでわたしのコメント欄に記入した、あるいは
  これ以降、わたしのコメント欄に書き込まれたキミの文言のコピーを用いること、
  どうぞ、承知願います。
    (他者のコメント欄に用いられたキミの文言は極力用いずに進めますという意味含む)

 まず、コチラ側の主張(「言語」や「詩歌」における立ち位置)は以下の通り。
 この確認もよろしく。
 =======================================
 ■「詩歌」の存在意義の一つに、新しい言語を生み出したり、定着させていくという
  役割が在る。 (と、ま のすけは考えている。)

 ■「文法」とは、一つの言語に対して、必ず一つだけ存在するというものではない。
    (と、ま のすけは考えている。)

 ■また「言語」と云うものも、同一の言語ソサエティに属する者の間でも、社会的
  階層や、地域差、あるいは時代の変化によって、大きく影響を受けるものであり、
  一人の人間においても複数のコミュニティに参加する可能性のある以上、複数の
  言語を使うことがある。 (と、ま のすけは考えている。)

 ■上記の事由と根因的に結びつくが、複数の言語や、複数の文法の混同を用いたと
  しても、それが次世代の言語を生み出していく過程である以上、必ずしも誤りで
  あるとは、何人も(誰も)断定できない。 (と、ま のすけは考えている。)

 =======================================
  上記4点に対し、反論があれば、反論を記して下さい。
   反論がなければ、この立場を理解出来たものとして、先日来の「宿題」と称するものに
   ついての、論考を述べていこうと思います。

---2010/07/13 23:13追記---
 これは、あくまで附則事項になりますが、ここを進めていく上で、
 (1) 私にあきらかな誤りが在り、それを自覚認識した場合には、その部分に対して、
   謝意がキミに伝わるように、潔く謝罪します。
 (2) キミ自身、論を重ねていく上で、主張も意見も変わって来ると思われるので、もしも
   引用を行う場合には、なるべく新しく書き込まれたものを優先して引用していく。
 (3) 相手の許諾を得ぬまま、ここでの遣り取りを他のサイトへの転載はしない。
 (4) なるべく時間をおかないように書き続けるが、生活や仕事上の事由が在る場合、
   メッセージ等で、遅れる旨を伝える。
 (5) アップしてから、8分程度は、文章の修正/校正の時間を下さい。
   (ネット上では、書き込んでから校正入れていたりしますので…)
 以上は、こちら側の決めだから、(3)以外、キミには守る<義務>は在りません。
---2010/07/14 15:38追記---
 書かれた反論等を読ませてもらいました。 ありがとう。
 漏れなく、建設的な論を展開していくために、あと2〜3重ねて確認をしておきたい。

 上記主張の■の順序は違えることになるが、
 >「私はパンを食べました」は文法に合致するが、「私なパンほ食げましま」は文法を逸脱している。
 に関連して、
 「その時、空はトカゲの血液を纏う眼だった」など、常識(とされるもの)を越えた(あるいは逸脱した)
 比喩については、『文法を逸脱』していると考えるか、文法の中、言語の活用さえ正しければ、文法の
 中に収まっていると考えるか、を確認しておきたい。 −−−−(1)

 もう一点、『文法の逸脱』に関して、新しい語法「マジヤバ」や、現代日本語ネイティブの半数以上が
 違和感を感じているような語法「全然好いよ」(*この話法はかつて一部辞書に記載アリ)については、
 文法を逸脱するもの(つまり、慣用を越えていると指摘すべきと考える)と捉えているか否か、を、
 同じく確認しておきたい。 −−−−(2)

 ※蛇足にはなるが、文法の逸脱とキミが決めつけている「私なパンほ食げましま」も、声帯逸失者など
  による発話である等、特殊な付帯状況とともに存在しさえすれば、私は、文法の逸脱を感じない。
  また仮に、逸脱を感じたとしても、キミのように、のべつ相手を見ずに注意するようなことはしない。


 不同意とされた『詩歌の存在意義』に関して。 (ここは確認のみ、回答は特に不要です)

 芭蕉門に見られる、新しい「風体」への取り組みや、和歌より受け継ぐ俳諧連歌に持ち込まれた「雅」
 の打破を目的として用いたいくつかの「言語」や《語法》は、少なくとも当時の社会的な風潮および、
 式目を十分に逸脱したものであったが、結果、その企図の成功とともに、言語における新しい世界が
 啓かれた。(もちろん<無季自由律等俳句>のようにその時代に受け入れられず、新しい言語世界を生み
 出せぬまま、運動自体廃れていくケースも多々存在する。)

 だが実際、俳人の中には、新しい「季語」や「オノマトペ」を作ろうと意図の上での努力を続けている
 者があり、草田男による「萬緑」など、広く人口に膾炙する語も生まれている。
 あるいは、特定分野の業界用語や外国語など、歌謡曲なども含む広い意味での詩歌と詠まれ唄われる
 ことで、広く受け容れられるようになったものも多く現存している。
 これは決して、結果そうなったものではなく、そのほとんどが誰かの企図をもってそうしてきたのだ。

 日本語に限らず、言語の続いてきた事由のひとつに、人類の体験を越えた言葉が、詩歌などとともに
 言語へと用いられてきたからであって、科学的には「空がパッカと割れた」ことなど無いだろうし、
 「血の色の地獄」が、よしんばどこぞに存在していたとしても、人類社会においては詩歌か、あるいは
 SF・奇譚小説など想像の上でしか成立はしない。
 ただ、そのような比喩表現などを数多く積み重ねていくこと中から、新しい言語が創造されていると
 云うのは事実であって、わたし、ま のすけは、俳句をはじめとする詩歌に、少なからず言語創造の
 企図をどこかに持ちながら立ち臨んでいる。

 複数の人間が長く話を続けている「ペチャクチャ」という擬態語に、現今の文法的には結びつかない
 「糸が呼んでいる」という語を、自分の詩の上で結びつけ、その感覚をどこかの誰かが拾い共鳴・共有
 し、別の場所で用いていけば、その音価の持つ感覚に「ものを呼びよせる」という意味が広く載せられ
 る日が、いつか来ることになるかも知れない。

 長々書いて申し訳なかったが、キミからみて買被りと言われようと、わたしはそう考えているという
 ことについて、納得がなくても構わないが、そうとだけ記憶にとどめながら進めて欲しい。−−(3)


 今回もうひとつ確認しておきたいことが見つかったので、最後に。

 それは『表記の問題』。
 キミは、当フォーラムにおいて、表記に関しても過誤を指摘をしているようだが、キミの中での表記の
 正誤とすべき基準は、どこにおいているのだろう?
 [濁点]を付けているのが間違いと指摘している訳でもなさそうだし、キミ自身、上代の世界を表現した
 とする文語作品の中でも当時存在し得なかった文字や句読点を使っているし、一口に《規範仮名遣》と
 いっても時代の中でいくつか存在してきたので、「いつ」「誰から」発布あるいは知らしめられたもの
 を用いているのかを明かしてもらいたい。 −−−−(4)

 また、「机(つくえ)」「泥鰌(どじょう)」「ゲーテ(人名)」さらには国名については、文語作品の上で
 どう表記するのが正しいと考えておられるのかも、併せてお教え願いたい。 −−−−(5)



 この後、まずは【拙句に用いた「死を背く」について】から、自身の見解を述べていきたいと考えて
 います。(未入力だが、論の骨子はノートにまとまってます)

---2010/07/14 21:47追記---
 孤蓬クン。 キミのコメントは、作者へのクレームや作品の誤りの指摘ではなく、単なる
 キミがどう思ったかの私見表明なのかい?
 >>端居して今また一歩死を背く
 >「死を背く」という言い回しは、日本語の慣用として、どうも変です。
 >「背く」という語の慣用からは、「死に背く」。     <2010.07.10>


 >「死を背く」について、私は文法的な誤りと主張している訳ではないので、それをきちんと
 >踏まえた上で、足下の見解が敷衍されることを期待する。 <2010.07.14>

  文法的には、『死を背く』は、十分取り得る形だけれど、単に今、あまり聞き慣れない形
  だから、自分(孤蓬クン)には、違和感を持って聞こえる。 と、こう云うことなんだね?

  文法的に、「〜に」「〜を」(共に(格助詞))に、どのような混同例が存在していたか、
  どうしてそうなるか、キミに理解できるように、自分の説に少し補って書き上げたんだけど…。

  なら、先に、『俳句』というものの教授から始めた方が良さそうだね。
   <ちょっと中断。今晩またあとで>

 
---2010/07/15 10:41追記---

 まず、『俳句』が「詩」の一つであるということを理解して下さい。
 つまり「意味の正確性を伝える報告」ではなく、「何かを感じさせる
 ための十七音の装置」なのです。
 よって、「詩」であるためには、<虚>と<実>との連携によって「詩情」
 をもつか、用いる言語上において<実>を歪めることで「違和」を感じ
 させるかが、必要になるのです。

 ・すいかにはタネがたくさんありました
 は、ですからたとえ「スイカ」という季語を用いようが『俳句』では、
 ありません。(けして散文だからという訳ではなく)

 ・すいかにはタネの数だけ昼と夜
 の句の、眼前の「すいか〜タネの数」は<実>、「だけ昼と夜」は<虚>。
 したがって、認識上は<虚><実>連携の『俳句』ということになります。

 ついでなのでもう一歩廻り道をしますが、『俳句』は「俳の句」です
 から、理想は99.9%の<実>に、感じる許容力を持つ者だけがかすかに
 感じられる程度の0.01%の<虚>の連携が、質の高い『俳句』を生み出す
 ものと、もうこれは無条件に覚えておいて下さい。

  朝顔や葉の一枚に影と陰 ま のすけ


 さて、その『俳句』。「つくる」とはあまり言いません。和歌ではあり
 ませんので「詠む」というのも少し違う。俳句は本来「ひねる/練る」。
 実景をカメラのファインダーを通すように内側に入れ、言葉に置き換え
 た後、「詩」へと昇華させるために、ここで「ひねる/練る」のです。

 「ひねる/練る」のに、いくつかの手法があります。
 すべてを書くつもり在りませんが、ひとつは「季語の斡旋」。そして
 ひとつは「語順変化」。またひとつは「助詞の置換」です。
 ここでは、「助詞の置換」についてのみ書くことにします。

 前回のコメント欄で、チラと書きましたが、再度改めて。
  「に」→「へ」
    妻が手の細き指から秋に入る
    妻が手の細き指から秋へ入る
  「に」→「と」
    鈴虫や歪む正座を終りにす
    鈴虫や歪む正座を終りとす
  「が」→「の」
    妻の背を離れて坂に秋が来る
    妻の背を離れて坂に秋の来る
  「の」→「が」、「に」→「へ」
    キミの背に想いのかぎり秋茜
    キミが背へ想いのかぎり秋茜
  「の」→
    花の散る春わびしさを通り過ぐ
    花も散り春わびしさを通り過ぐ
    花と散る春わびしさを通り過ぎ
    花ぞ散り春わびしさを通り過ぐ

  これらは、当然「格」の置き換えや、助詞の前に配された名詞の質の
  変化を伴っています。(あるいは話法としての時代感覚の飛越なども)


 さて、ここでキミの指摘を受けた拙句
 「端居して今また一歩死を背く ま のすけ」
 についても述べさせて頂きます。

  端居して今また一歩死を背く
  端居して今また一歩死に背く

 どちらが、俳句として質の高い句だと思われますか?
 「舌頭千転」俳句は、目で愉しむ要素以外に、耳で愉しむべきものでも
 ありますから、時には声に出してお読みいただくと好いでしょう。

 母音だけを抜き出してみると、
  aiiie ia aa i_o ioouu
  aiiie ia aa i_o iiouu
 私には、その直前の[i_o]の存在から、雲泥の差で[ioouu]つまり「死を」
 に軍配が上がると感じるのですが、その感覚は理解できますか?
 この感覚がお判りにならなければ、『言語』についての理解も深みへは
 到底、到達できないだろうと思います。

 「一歩」の部分が[ieo]などであれば、「死に背く」に近寄りもするので
 しょうけれど、あくまで[i_o]なのですから、もたもた[iio]とするのでは
 なく、[io]の同音反復を拍を縮めておこなう方が、よりリズム感を伴って
 耳の奥にまで届いているはずです。
 ご理解頂けますかね・・。

  *私自身、このフォーラムを軽くも、反対に過度に重くも捉えては
   いませんが、俳句などの作品は、もっと厳しい目に晒されること
   を前提に十分な時間を掛けて仕上げたものであって、ここに書い
   た内容はキミからの指摘が在ってはじめて、後付けで考えたもの
   ではないということ、どうぞご理解願います。


 これらに示したとおり、俳人にとっての俳句は推敲段階でかような「助詞の
 置換」を試みた中から、その者の伝えたい感覚に沿うように選びとった結果
 なのですから、作品に対し俳句の心得の薄い者から「てにをは」や「用いた
 文字」について、「こっちが正しい」だの「それは間違い」だの言うことは、
 たとえそれが文法上適っているものであろうとも、大きな「勇み足」でしか
 ないということ、謙虚に心得るべきです。

 キミ自身、作家という立場をとるゆえ、最後には「作家の裁量に…」という
 理解もおありでしょうから、それをさらに一歩進め、「詩歌」という意図を
 持って書かれた作品に対しては、それがいかなつたないものであろうとも、
 キミ自身の潜在顕在の自己顕示に基づいた《作品の修正を求める行為》は、
 少し差し控えるとよろしいかと思います。


 ここまでの理解の先、先般の宿題(文法的な位置付け)について、あくまで、
 学究的な論究を目的としてのみ、書いていこうと思います。
  遅くなり、申し訳ありませんでした。
---2010/07/16 14:00追記---

 うっ、
 >天地の狭間へ赤き雨降るる ポルポトの子ら親となりても  ま のすけ

  これは確かに間違いですね。 「降る」と打って、「れる」と打って、「降る」の「る」を
  BackSpaceで消したつもりだったのですが、Delで消してしまったのでしょうかね。
  ここは、キミのご指摘の通りです。
  「天地の狭間へ赤き雨降れる ポルポトの子ら親となりても  ま のすけ」と
  訂正させて下さい。

  ところで、この部分に書かれた【「てにをは」が変 】とは、どういう意味ですか?
  少し、疎通に欠いている(理解出来ていない)内容が含まれていますので…。

  私としては、口語訳(意訳を加え)として、
  「ポルポトの子供と呼ばれたユンカーの(自らの親を殺めた)少年少女らが、
   (その虐殺事件から長く精神的な)時間を経て親となったいまでもまだ、
   この天と地との間には、止むことなく赤い雨が降り続いている」との意味ですので、
  助詞に関しての指摘には、どうも合致しないように感じるのですが・・。

   どうぞ、教えて下さい。
---2010/07/17 07:20追記---
  おはようございます。

  >私としては、文語における連体終止には、どうも据わりの悪さと言いますか、まがい物感を
  >感じます。
    の部分、わからぬでもないのですが、俳句では「連体形+(哉)」のカタチかでの
    (哉)の省略形は、十分許容されるべきことと認識していますし、また短歌などでは、
    詠ずるという感覚を強く持ち込む場合には、文語であっても、やはり書き言葉を
    離れ、口語的に近付いて来るのは、歴史においても、個々の歌作においても、
    必然のことだったろうとの感覚でいます。

  中々、先へ進んでいないようですが、<文字数制限>回避のため、場所改めますね。