『燐寸箱(a matchbox)』 自由律題詠 2010.05〜/ま のすけま のすけさんのコメント
>孤蓬さん コメントありがとうございます。
この少女は、「マッチ売りの少女」の意ですから、過去形で好いのです。
ま のすけも、みっちり俳句系のニンゲンなんで、文法にはそこそこ…。
でも、コメント頂けたこと、素直に嬉しいです。(微笑)
---2010/05/24 12:11追記---
>再び孤蓬さん
>構文上、こういう場合は、完了の意味になるのであって・・
間違っていると、一意的にお感じになられる前に、どうぞ余裕余白をお持ちになられ、
違う解釈出来るのかな? と、より一歩作者の意図を汲んでみる。
そんな感覚でいて下さると嬉しいですね。
夢の続きを見ているのが、少女である場合は、確かに仰るとおりでしょう。
ですが、作者の意図はそれとは異なっており、あくまで《召された少女》(「虚」)
の、この世に残した《夢の続き》(幻影的「実」)をみているのは、燐寸をする「男」、
もう少し正確にいうと、男が勝手に自分がみるその夢をマッチ売りの少女の夢の続きだと
思い込んでいる滑稽さとアイロニーとを表現しているのですから、ここはそれを意図して
の過去型で、きっと良いのです。
そもそも、孤蓬さんのような解釈の句であれば、完了形を用いると同時に、
《夢の続き》の「続き」という継続を重ねる語を用いることは在りませんでした。
ずいぶんと野暮になりますから。
「燐寸箱 召されたる少女の夢のかをりよ」
「燐寸箱 召されたる少女の夢を灯せば」
あるいは、
「燐寸箱 召されたる少女の夢ひややかに」
とでもなったでしょうか。
(*いずれにせよ、俳句でいう中七の部分のまだらっこさが残りますが…)
とまれ、ご熱心に時間かけて頂き、ありがとうございました。深謝。
---2010/05/27 04:47追記---
>再々度 孤蓬さんへ
>なお、貴句のみならず、現代人が文語表現を行う場合、過去・回想の助動詞「き」
>(の連体形「し」)が多用され、やたらと「〜し」という表現が目に付きます。
上記の感覚については、私としても同様の危惧を感じておりますが、
こう読んで欲しいとする作者の意図を越えて、変更を求めるのは、いささか
行き過ぎた行為かなとも思います。
件の句では「少女」を過去に消し去るがための「き」の使用であって、
「夢の続き」と《続き》という単語を用いているからという主張は、本当に
「言語」や「詩歌」が判ってらっしゃる方の姿勢とは、差異が感じられます。
リリースした瞬間に、作品は作者の手を離れるとも申しますが、だからと
言って、書かれているコトバを変えてまで、異なった解釈を続けられるのは、
鑑賞として、誤った姿勢でもあるでしょう。
どうぞ、その辺りご理解下さい。
また、
>そもそも、現代口語における【完了・過去】の助動詞「た」は、文語/古語における
>【完了・継続】の助動詞「たり」が変化したものです。
と書かれておられますが、紙幅のせいであったら申し訳ないですが、「た」への
道には、それ以外にも「てや/てあ」「てやり/てあり」を通る変化も在ります。
コトバは、同時代にいくつもの相貌を持ち合わせつつ存在しているものです。
どうぞ、ご自身の知識のみを過信されることのなきよう、ひとことご忠告を。
更には、言語の変化を認めない姿勢は、「あたらしい」というのは間違いだ、
文語に寄せるなら「あらたしい」でなければならぬと言い張っているに近い
ですし、他にも擬音・擬態表現で、平安と江戸前期と明治期との間での断絶の
見受けられるもののうち、どれが絶対的正解であるかを、先に指し示しておく
必要があるようにも思えますが、地域偏差もあるのにそんなことが出来ますか?
内村鑑三などの出る前の文語を範とされた場合、「自由」という単語は存在して
なかったので使ってはならないとご指摘なさるおつもりですか?
「おにぎり」と「おむすび」はどちらが正解ですか?それとも携帯食は「強飯」?
形容詞の名詞型「ぬるさ」と「ぬるみ」は、どちらが正解ですか?
昔からは存在しないものや行事を、文語調で詠むのはNGですか?
旧暦表記の問題についてはどうですか?新暦はNGですか?
そうなると、既に文語調の詩歌すべてが、回想か、あるいはフィクションという
ことにもなってしまいますよね。
口語だとどうですか? 「データー」と「データ」どちらが正解ですか?
「サクラ」と「さくら」では? 「テレヴィジョン」と言わねばならないですか?
これらすべてに、どちらかを過ちであると、指摘し廻りますか?
そこまでいくと、ある特定時代の特定階層に膾炙した文化に通じているとの
評価は出来ても、「言語」そのものや「人間」については、かなり疎い方だとの
評価をせざるを得なくなってしまいますね。ではないでしょ、もちろん?
あなただって、万葉的表現手法を使われたり、単純な明治期の文語を用いられたり
使い分けられているじゃありませんか。ねぇ。
「言語」が変化を続けている「道具」だと認識されておられるからではありませんか?
でも、もう一点。
あなたがどなたかへ指摘されていた中で、あきらかにあなたの方に過ちが見受け
られたケースについても、こちらで言及させて下さい。
孤蓬さんは、短歌・俳句の結句の活用形に関して終止形でないから誤りだと指摘
されておられました。
けれど、俳句などでは(時には短歌でも)結句が連体形で終わることは多々あります
よね。何故なら、切れ字「哉」などの省略が起こっているケースがあるからです。
特に俳句は、ご存知ではあると思いますが、「省略の文学」とも言えるものです。
結句が必ずしも終止形で終わっていないからといって、作者の意図を崩してまで
「間違いだ、終止形に直せ」と主張されるのは、「言語」について、あるいは
「俳句」という特殊性についてご理解に欠けていらっしゃるか、あるいは疲れて
いらっしゃったからではないですか?
人の過ちを指摘、訂正されるというのは、かなりしんどい行為だろうと思います。
どうぞ、十分な余力をもって望まれて下さい。
でなければ、世直しのつもりで、誤ったバイアスを掛けてしまうことにも
なりかねませんから。十重をお気を付けて。
でも、あなたの作品は、結構好きだったりしますよ…。
流石に「姿見の鏡」はネーだろーとは思ったりしましたが。(微笑)
どうぞ、これからもよろしく。
『荒海や佐渡によこたふ天河 はせをの句』
*この句は間違いか意図的か。 いくつかの論拠から、私は意図的と
思います。 少なくともその後も推敲は重ねてましたから…。
この辺りの芭蕉のセンスはお持ち願いたいなぁと思いますけどね。
---2010/05/27 06:25追記---
なんか、加筆のうちに、随分うるさくなってしまいました。申し訳ない。