現象学的還元/まどろむ海月
まどろむ海月さんのコメント
読んでいただき、嬉しいです。

こめさん、落下傘さん、kauzak(吟醸並)さん、依々れんこさん、ANYWHEREさん、縫ミチヨさん、ありがとうございます。
祐緋さん、こめんとありがとう。
 もう10年以上前から、赤とは何か、青とは何か、という謎が、世界観を根底から覆す深さがある、解き得ない衝撃的な謎であることを、わかりやすくどう表現したらよいのかを悩み続けています。これが表現できれば、ありふれた日常の、ありふれていることそのものに、永遠の深さの相貌を与えることができるはずだからです。フェルメールの絵のような。
 実は、このサイトにも05/10/14に「世界は 魔法に満ち充ちて 不思議」の題で一度掲載しているのですが、 今回少し改訂しこんな大それた題で再掲載したのには少し経緯があります。その時には以下のようなコメントをつけたのですが、

*ニュートンは、「赤い光、青い光、などと言うべきではない。人間に、赤、青、の感覚を起こさせる光、と言うべきだ。」というように言っています。偉大な科学者は、形而上学の視点も持っているのですね。私たちに先天的に与えられたこの感覚。それにしてもなぜ赤なのか、この赤って感覚は何なのか。尽きることのない謎に、私たちの日常は包まれているのです。

 日頃、表現の奥義は最も平易な表現で最も深い内容を伝えることだ、と信じているのですが、平易すぎる表現に深さがかくれてしまうこともあるのかなと、ある人の一見難解な散文をこのサイトで最近偶然読んで、ああこの方がかえって分かりやすいと感じたことで、思いなおし、祐緋さんへの返詩も兼ねて、改訂再上梓することにしたのです。
 その散文は、Ю(ユー)さんの「 モーヌ。氏追悼詩論:空の詩人−フッサール現象学を手がかりに」です。
 大学でフッサールを学んだときは、カントとの本質的な違いがよく理解できていなかったのですが、その後メルロポンティを読むことを経て、コペルニクス的転回と言えるほどの違いに気付かされたのでした。
 フッサールの「現象学的還元」という語を持ち出すことで、詩がよくなったか、返って駄目になったか、自分では判断がつかないので、旧作はそのまま残してあります。

ツナさん、ありがとう。また悪い癖でつい風呂敷を。

---2010/01/28 22:59追記---

*ツナさん(久しぶりで本当にうれしい)、あなたのこのコメントの方がよっぽどすごい詩だよ。この饒舌感は残したまま、ぜひ詩として整理してしてみてください。このままでも充分にいいのですけどね。
*あなたのセンセ―というのはひょっとしたらかもしれないよ
*物自体と神の存在に重点を置いたカントは不可知論に傾いたけど
 逆にフッサールは人とともにあるこの現象の無限の記述(探究)のほうに価値を置いたということだったと思います。

人の感性とともにあるこの世界の奥深さ
ツナさん かって
世界とともにある叙情性について
語りあったことがあったね


---2010/01/30 20:27追記---

---2010/05/22 09:50追記---