現代詩をそんな読み方してないゆえに/KETIPA
雅 羊々さんのコメント
 大変意味のある散文だと思います。

>この感じが共有できる気はしない(言語化出来ないから)
 共有というのも言語というもののみを通じてされるものではなく、例えばロックコンサートで体を踊り乱している人々には、彼らの間で何かを共有されていると見てよいのではないでしょうか。「LIVEの一体感」ということを彼らはよく口にしますが、これは比喩でもないでしょう。
 仮にその感じを言語化(言語化というよりも、「感じ」を「誰にでも経験できる感覚体としての言語集合体」化)できたとすれば、その人は名批評家になれます。岡部さんはそれが出来れば哲学史が一変するとおっしゃっていますが、実際には「感じの一般言語化」それだけでは哲学を一変することには不足で(精々名批評家を生む程度で)、つまり何が不足なのかというと、その前の段階、「その感じを誰しもに等しく感じさせる」段階があって大変な何かを生む素地が整うのだといってよいと思います。
 それが可能かどうかは知りません。と言うより「完全に」実現されるということを言わなければ、程度により既にこの世に実現されていることです。名批評家が要るという事実がそれを語っています。セザンヌにこういう言葉があります「ボードレールの絵画批評は実に呆れたものだ。ちっとも間違いがない」

 因みに最果タヒさんの作品はどうも不幸な方の匂いがするので私はちゃんと読んでいません。それはどうせ共有するなら良いもの、幸福なものをと望むからという個人的な指向のためです。不幸の方は嫌になるくらいには受け入れてきましたので。

 もう一つ私事ですが、私はこちらで詩を書かれている方のとある作品に感銘を受けて、批評詩とでも呼ぶべき散文を書きました。感動を逃がしたくないという願望から得られた形式です。

ヨキ氏「アルムラの葬列」へ捧ぐ
http://po-m.com/forum/myframe.php?hid=3887