孤独な感受性/佐藤雅 羊々さんのコメント
大学四回生の悩みに支えられた書きちらし。自分は議論と言うのがどうも苦手なので、例えば補足的な傍流として。
> 現代社会は、法によって守られている社会であるためか、さまざまな物事に対して論理的に解決、解釈できると思っている人が多い。しかし実際は物事の大半が、往々にして論理的破綻を生み出す。だが、論理的破綻こそ、物事の本質である。物事はそもそも矛盾に満ちていて、数学的に解決できる事件など、この世にはない。
「論理的破綻」という言葉は、ハンマーの様に激しく対象を叩き潰してしまう、それが、あまり好きじゃないので少し和らげます。「ある人の理屈にも、また別の人の理屈にも、どうにも一理くらいはあるものだ。元より一理も無い理屈に人は引っ掛りはしない。して、時に両者の理屈がぶつかる時がある。さて困った。では吾々はどうすればよいか。簡単だ。人の道に照らしてより強い理、それが見付からなければ、より多くの理を備えた理屈を勝ちとすればよい」
>私的な立場で極論を言えば、法律の最大の矛盾は、「人が人を裁くこと」である。
近ごろ思うことですけれども、切腹と言うのは面白い制度ですね。いわば「己のしでかしたことは己で始末を着けていけ(その上で世をされ)」ということでしょう。で、重罪を犯したものには切腹が許されない場合もある。親殺しや主君を謀ったりすると、そのものは最早切腹は許されず、人に裁かれる立場のものとなる、すなわち人に劣る生き物として人に罰せられる。
>単純に、答えが初めからあるわけではない。そもそも答えなどはない。
答えと言うのは点です。点は窮屈でのっぴきならないので厄介す。答えはなくても、求めるべき方向はあるかもしれない。つまり道です。
> 例えば、私たちは他の生物を殺して、その肉塊を食らうことで生きている。自分としては生命を奪うのは嫌だ。しかし、食べなければ自分は死んでしまう。自分が死んだら自分の周りの人は悲しむ。自分は死ぬわけにはいかない。だから、その生物を殺し、食らい、生きよう。この過程が、「決断する」「答えを出す」ということである。
> しかし、今はレストランや缶詰などの「媒介」の存在によって、「今まさに生物を殺して食っている」と言う自覚を伴わずに食べている者が多い。最初から「決断」があるのだ。いや、彼らにとってそれは既に決断ではない。それは、記号化、単純化された社会の中で、ただ何も考えないようにしているだけだ。
食前に祈りを捧げる行為は、尊き礼式です。自然で正しいからです。
> しかし、直接的な言葉に慣れ、コミュニケーションに不自由を感じなくなっていくと、『内なる孤独な感受性』は薄れていく。
> もしかすると、誰もが子供から大人に変わる過程の中で孤独感や不安感をぼんやりと抱き、誰もがそこから脱却しようとしてもがき、そこから脱却したと思い込んでいるのが、そこらへんにいるありふれた大人であり、いつもでも脱却することが出来ず、苦しみながら、言葉にならない感情を発し続けている人が、芸術家と呼ばれる人たちなのかもしれない。
現代人にとって理解すると言うこと。他人を解釈しようとするものは多く、吾が身ほどに感じたいとするものは少ない。他者が解釈を待つ一形式としか見られなくなった時、その人は孤独である。ゆえに人々は多く孤独であり、芸術を知るものは孤独ではない。温故知新。故(先人・故人)の魂は彼のうちで、再び温められ、彼の体内で息を吹き返しているだろう。
> ピカソの名言に
>「子供は誰でも芸術家だ。問題は大人になっても芸術でいられるかどうかだ」
> というものがある。
ピカソは「子供は誰でも芸術家だ」とは言ったかもしれないが、「子供の作るものはどれでも芸術作品だ」とは言ってはいないということに注目をえたい。知識も技術も持たぬ子供は、感性をよりどころとして、納得のいくまで良いかたちを求めようとする。作ることの喜びがあり、努力の手ごたえを知る。たとえその時、得られたものがまずいパンに過ぎなかったとしても。−子供は誰でも芸術家だ、芸術家のやり方しか知らないからだ。
---2009/07/10 02:21追記---
>子供時代から思春期になっていく過程で、社会に出るために必要な、相対的な考え方をさせられるようになっていき、初めて自己(アイデンティティ)を認識するようになる。
>なぜ、今までの自分たちを否定し、自分たちの環境を否定し、そして自分たちの親を否定してまで変わっていかなければならないのか。そう簡単に割り切って、否定できるものだろうか。
>(中略)そのように単純化するような人間は、自分が生きていくために他の生物を殺して生きている、という現実を考えないようにして生きていくのだろう。
人が生まれ落つる時、彼が与えられたものはささやかな芽である。彼が他の何かから特別でありたいと願い、また自らを何かしらであると信じたい時、不幸なことに芽はまだ花とはなりえていない。かれを充たすべき高貴な魂の汗は、僅かばかりの時間では彼の額に玉することはなく、そして頬から滴たり落ちることも決して無い。いまだ育たぬ芽を持ちながら、持つものは正しく人間であると既に知ったということ——それが彼を焦らせる。
この時、他者は彼が求める花の喜ばしき幻影であり、或いは忌むべき幻影である。もし彼が「我が為の花」を探すならば、彼は幻影の中を歩まねばならぬ。時にそれにひざまずき、時にそれに唾吐きながら。偽りを手にしては嘆き、或いは何すら見出せず飢(かつ)えながら。——然し、もし立ち籠める霧を一息に吹き飛ばすように、幻影の森を掻き消せる様な秘術があるとしたら……彼にそれを使用する権利はあるだろうか? たとえそれが己が目を殺すという魔術であっても。
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最後に独り言です。この間、夜中に見事な満月が出ていました。
まあ、見事な満月です。昔、兎が跳ねたって言うのはあれは実話ですね。スキップしましたから、私。