詩を書く者の責任とは、/白井明大
白井明大さんのコメント
キリギリさん
初めまして。コメントありがとうございます。

多和田葉子さんの文章にこんな一節があります。

「初めて出した詩集の題名は、「あなたのいるところだけなにもない」。この詩集に「女に花束を送るな」という箇所があるが、これを朗読した時に、花屋をしている人が聞きに来ていて深刻な顔で「どうして女に花束を送ってはいけないのですか」と聞かれてしまった。詩をメタファーとしてでなく言葉どおりに採ってほしいというわたしの願いは見事にかなえられたのである。」

(ここで読めます。POETRY CALENDAR TOKYO「声が響いているということ自体の不思議さ 〜ドイツと日本での朗読〜」
http://pct_web.tripod.com/topics_25.html

この一節を引いたのは、キリギリさんの散文「エ論〜ひどく限定された語彙の下で〜」の、以下の箇所に符合することを思ったからです。

「表現とは「表わし」「現す」ことである。自己表現とは「自ら」を「表わし」「現す」
ことである。その服はしまむらかユニクロの「表現」である。その下着はワコールか
セシールの表現である。」

両者にはかさなりあうところがあり、それは、「詩を言葉どおりに採る」ことに意味をおくことでは、と私は思いました。

これもまた、「なにかを見つけ、指さす」という詩人の担うことではないでしょうか。

「詩を言葉どおりに採る」こと、「その下着はワコールかセシールの表現である」ことは、日本の現代詩がいまつきあたっている問題のひとつだと、私は感じています。

言葉を比喩の作用から、言葉どおりの働きの場に取り戻すことがです。

貞久秀紀や、江代充らが、そうした表現に意識的のようですが、私にはまだ把握しきれておりません。

<社会のひずみ>から脱出する一つのみちとして、<言葉を比喩の作用から、言葉どおりの働きの場に取り戻すこと>は重要であるように感じられます。

どのようなひずみからの脱出か。

それは、イメージ先行の社会からの脱出かもしれません。意識へのさまざまな刷り込みから、心が自由になるほうへむかう脱出かもしれません。