春だ花見だエロ祭/プル式プル式さんのコメント
イワモト アヤ さん、コメントありがとうございます。
描いている男性の視線というのはものすごく影響される物だと思っています。
だからきっと、そこにはエロチシズムがあるんですよ。きっと。
---2009/03/18 11:40追記---
蛾兆ボルカさん、コメントありがとうです。
「見ている人によって違う」確かにありますね。見ている人の状況によっても、もちろん。「いった後」の聖人タイムって何なんでしょうかね。あの時間、嫌いじゃないんですけども。
非ピリン系さん、教えて頂きありがとうございます。読んでみます。
イシダユーリさん、本当にありがとうございます。
多分、論点をずらして書く癖があるんでしょう。すこーし自覚しています。
>性的なことを書いたり言ったりすることが男性にアピールしてはじめて、エロになり得ると思うと、そのようなことはなかなかできないなあと思うのです。
朗読やパフォーマンスという行為自体が、誰かに対するアピールだと思います。エロにおいて、同性愛というジャンルがある以上、他者屁のアピールになるのでは無いでしょうか。また、エロに関しては内容の通り、僕は受け手の問題だと思っているのです。(言ってなかったらごめんなさい)
>「セックス」って言ってやったぜ!みたいな感覚ってのはどこまでもついてくるものだし、だからこそ、言うんだと思うし、それでいいじゃんと思う。それは性的なことに限らずいえることだからです、「夕暮れ」って書いてやったぜ!「平和」って言ってやったぜ!みんな同じな気がします。
あぁ、だからイシダユーリさんは素敵だと思うのです。もし、そんな事は無いなんて言われた日にはどうしたものかと途方に暮れたでしょう。僕も同じ場所にある物だと思います。ただ、そこに「性的」という事が加わる事で、一つ動きが加わるのだと思っているのですが。言ったもん勝ち、言ってやったぜ、というのは、やはり流行の様な気がします。それは、全世代的な流行と言う物ではなく、例えば中学生が校舎の裏で見つけたエロ本に興味を示したり、落ちていたコンドームに嫌悪感を抱き、周りにその事を吹聴する様な、一つの熱です。
深いところ、というのは、なんというか、絵を書き続けると、同じ物を描いていても違う絵になる、みたいな事で、芝居でいうなら、悲しいシーンでは泣くよりも泣くのを堪えるという手法の方が見ている物によりアピールが出来るということで、あー、やっぱり言葉が足りませんね。多分、イシダユーリさんは無防備です。少なくとも、そういわれるとそう思います。でも、そこが素敵なのだと思うし、それが無ければ今のイシダユーリさんは無いんじゃないでしょうか。
---2009/03/20 12:14追記---
桜桃紅姫さん、コメありがとう。きちんと読まなくてもいんじゃないかな、と。んで、エロい詩、実は難しいですよね。
---2009/03/21 09:54追記---
仲 仲治さん、コメントありがとう。中途半端なのでいろいろな意見が聞きたいです。大歓迎です。
---2009/03/21 22:38追記---
イシダユーリさんへ
始めの散文と、次の散文は、別の内容だと言う事を先に伝えておこうと思います。
僕が「流行」と使っている言葉の中に何があるか、ということですが、
『流行としてのエロ』という言葉に語弊がありました。すいません。正しくは『流行としての性的表現(テキスト)』という事であり、散文の内容の様に、エロは受け手の問題で『流行』する事は出来ません。
その上で、質問の返答としては、個人として『必然性』があり書いている詩や『命がけ』というものに対しては、全くなにもいう事はないし、批判するつもりもありません。それは先の散文の中で書いた通りです。個人が個人の言葉で書くなら好きに書くべきです。ただ、表現者として見た場合、同じものが繰り返されるのはどうなのか、という事を言いたかったのです。
アピールについて
>性的な詩を朗読する事は、男性に魅力的に〜性的な詩を朗読している訳ではない
という事に関してですが、その通りだと思います。可能性というよりも、意識しないで読んでいる人の方が多いのではと思っています。
>エロ、アピール、という言葉がならんだとき、アピールという言葉のはそのような直接的な意味を含意すると考えられます。
性的表現のテキストを含朗読としてのパフォーマンスは、エロでは無く、アピールとしても性的な意味合いを基本的に含まない(両立しない)と考えます。
1、朗読はアピールの一つです
2、アピールはエロを喚起する可能性がある。
3、しかし朗読において、性的表現のテキストは、ほぼ全くエロを喚起しない
4、なぜなら朗読はパフォーマンスだからである
5、それ故に、官能小説を朗読しても(朗読者が意図的な読み方をしない限り)エロには直接つながらない。
6、結論として、性的表現のテキストを使ったパフォーマンスは、性的アピールにはならない。
性的表現が、一種の勢いを生む事はあると思います。
しかし、勢いだけでなく、先に書いているとおり、心に残るものも、詩として先につながるものもあると思っています。
最後に
(女が詩で)そんなエロいこといったって、こっちは(男としては)ピクリともしねーんだよ
エロいこと言って満足してんじゃねえよ、浅せえよ
エロいことにエロいこと以外の必然性なんかねえんだよ
エロいこと言って評価されてる時点で時代遅れなんだよ
はどれでもありません 。
僕としては、個人の必然性によるリーディングと表現者としてのリーディングパフォーマンスは、別のものだと思っています。
まあ、確かに、朗読で性的発言を含んだとしても、エロさは感じないでしょうが、浅いとも、必然性が無いとも、時代遅れだとも感じません。
先の散文で書いた内容はあくまで『表現者としてのリーディングパフォーマンス』であり、この散文で書いた事はあくまで『エロとはなにか』なのですから。
---2009/03/21 23:15追記---
イシダユーリさんへ
追加の内容で考えてもらえれば問題ないです。
>性的表現ばかり何度も繰り返しやって満足しているのはどうなの?というのに近いかなあと思うんですが、違うんですか?
の箇所は、性的表現に限らず、表現者としてどうなのか、という事です。
個人と、表現者の違いは、簡単に言えば、
表現者とは見せ方や見え方、伝えたい事を考えて『見せる』事を意識した人です。
個人とは、見せ方や見え方よりも、個人としての必然性に重きを置いている人です。
長い間、わかりにくい内容ですいませんでした。必要性があればですが、話せる機会があれば、そのとき話せれば幸いです。
---2009/03/23 11:52追記---
市川綾さん、コメントありがとう。エロについてもありがとう。
この散文でのエロと言う定義を貫くべきでしょうが、貫かずに書きます。
>端的にいえばパンツの中身そのものはどうってことはなくて、やっぱりそのパンツを脱ぐ過程のほうがエロイと思うのです。
全くの同感です。
>余談ですが美大の文化祭でオッパイまるだしのボンテージのお嬢さんを見たんですが不思議とエロくありませんでした。
そういう物では無いでしょうか。表現とされた時点で、エロさは多分ほとんどの人が感じないと思います。中学生男子程に敏感なら別でしょうが。
それでは。