春に/黒田康之黒田康之さんのコメント
石川さんポイントありがとうございます。孤蓬さん丁寧なご意見ありがとうございます。文法話新鮮でした。
ただ、文語文法と口語文法の混交が必ずしも木に竹を接ぐことにはならないと思います。例を出せば世の秀歌中にいくつもありますが、例えば寺山修司の「海を知らぬ少女の前に麦藁帽子のわれは両手をひろげていたり」の「いたり」を「射る」や「鋳る」に解釈する人はいないと思われます。「ゐたり」として座っているという解釈も出来ないので、「存在が存続している」と取って「立っている」とするのが妥当なのでないでしょうか。またたとえこれを誤用としても、この歌の価値が変化するとは思えません。
ここで私の拙歌の中の混交が孤蓬さんにそう感じさせたとすれば、それは私の作歌能力の未成熟以外の何ものでもないかと思います。以前は私も完全口語の歌を意識して作っていましたが、五七五七七という制約上、文語の音律という甘い誘惑に最近は転んでいます。
次に、助動詞「き」の用法ですが、過去と解釈するにしても直接体験の過去というよりは、判然と主体が過去と認める過去(はっきり過去の事象だと、有無を含んで認識できる過去)といったニュアンスだと思います。古文でも自身の夢の体験などは「けり」を使用する例文があります。「自己の直接体験といえない過去」が「けり」なのだと私は認識しています。
さて、私の「春に」中の「き」ですが、私は平安末期以降の「完了・存続」の意味で使っています。日本語の完了は存続の意味合いを強く持っているので、「ある動作が完了し、状態が継続している」状態を指すのだと思います。訳としては「〜である」が妥当ではないでしょうか。
したがって「ふくよかなりし」は「ふくよかである(継続している)」、「冷えたりしまま」は「冷えてしまったまま」と訳す(作った人間が訳すのも変ですが)のが妥当であり、時制の上で揺らがないと思うのですが。
何の気はなく作った拙作に真摯にコメントいただいたことに感謝申し上げます。
追記:お二人の作品遅ればせながら拝見しました。石川さんの名詞のきらめきや、孤蓬さんの文語を愛している文体に感銘を受けました。また他の作品もゆっくり拝見するつもりです。
---2009/02/16 12:25追記---