聖地より/白井明大白井明大さんのコメント
非難されるべきなのは、というより、いまただちにやめるべきなのは、
兵器で人を殺すことです。
ロケット弾の発射も、
空爆もやめるべきです。
孤蓬さんはなにを疑問視なさっているのでしょう。
「ハマスに非があるのに、イスラエルの空爆を非難するのはおかしい」とおっしゃりたいのでしょうか。
わたしは、戦争をおこなうすべての者がおかしい、と思っています。
いまたくさんの人が、イスラエルの空爆によって殺されているのです。
それを、やめろ、と言うのに、イスラエルが正しいもハマスが正しいもないのでは?
(付記)
ちなみに、ですが、
>今回、先に停戦を破ってロケット弾による攻撃を始めたのは、ハマスの方です。
そこまで明確には言えないようです。
日本にいて知りうることはそう多くありません。
ロケット弾による攻撃を、ハマスが先に行った、というニュースがあります。
「停戦を破って」と孤蓬さんがおっしゃいますが、
それは「停戦状態を破って」であれば解釈の余地があり、
「停戦合意を破って」であれば、誤りの可能性があります。
ハマスによるロケット弾攻撃は、停戦合意の期間を過ぎてからなされたものだった、というニュースもあるからです。
それは12/19だったようです。
また、停戦合意の内容には、ガザを完全に包囲しているイスラエルによる「道路封鎖を解除すること」が含まれていたようですが、停戦期間中も事実上、封鎖が継続されており、ガザ市内に食糧も燃料もきわめて限られた量しかなくなり餓死の危機にさらされていた、というニュースもあります。
もし事実なら、これは、停戦期間中の兵糧攻めですね。
そのことを考慮するなら、今度は<ハマスの方が先に破った>とは明言できなくなります。
また、イスラエルに正当防衛を認めるとするなら、受けた攻撃と仕返しの攻撃の規模の差は何でしょう。
また、「今回のイスラエルによる空爆は、半年以上前から計画していた」とイスラエルのバラク国防相自らが発表したという報道がイスラエルでなされたというニュースもあるようです。
戦争にどちらが正しいも何もないのではないでしょうか。
---2009/01/04 08:24追記---
孤蓬さん
お返事が遅くなり、申し訳ありません。
>イスラエルに対する批判は感じられても、ハマスに対する批判は全く感じられなかった
おっしゃるとおりです。
この詩は、イスラエルによるガザ市への空爆に反対する詩です。
だからといって、イスラエルだけが誤りで、ハマスが正しいと考えているわけではありません。
武力で人を殺すのは、どんな国や組織のものであれ、いやです。
---2009/01/04 23:49追記---
孤蓬さん
>こうおっしゃっても、片方だけの非難は片手落ちですし、説得力が無いと思います。
そうかもしれませんね。
わたしはそうではないだろうと思い、この詩を書きますが、孤蓬さんにもまたそうおっしゃる詩論の地がおありです。
余談ですが、こうした争点についてこのコメント欄で記しあうことができ、会員にかぎらず閲覧可能な状態にできることが、現代詩フォラームの仕組みのよいところだと感じます。
ご意見ありがとうございます。
---2009/01/04 23:54追記---
コメントくださったかた、
なんとお返事してよいやらわからないのですが、
謹んで拝読いたしました。
---2009/01/07 00:20追記---
孤蓬さん
こんばんは。
おっしゃっていること、なるほどと存じます。
まず、
>私が申しているのは「詩論」ではありません
という点ですが。
>何度も申しますが、貴下の詩には、ハマスによる攻撃はもとより、ハマスという言葉すら一言も触れられていないので、一方的にイスラエルのみが非難されているように私には感じられ、先のコメントを記したのです。
とおっしゃっていらっしゃいます。
これは「なぜ白井の詩に、ハマスという言葉すら一言も触れられていないのか。詩からは、イスラエルのみを非難する文意が読み取れるがそれはアンフェアではないか」という問いを含んでいると解しました。
そこから「国際紛争に対する詩は、紛争当事国(ないし紛争当事主体)に対してフェアであるべきだ」という孤蓬さんのお考えを、私は感じ取りました。
もしかすると、また違ったお考えからコメントをくださっているのかもしれませんが。
いずれにしましても、孤蓬さんが拙詩に対してご批判なさるとき、孤蓬さんはなにがしかの詩論に立脚してご批判なさっておられるのではありませんか?
続いて、
仮に「反戦詩は、紛争当事国(ないし紛争当事主体)に対してフェアであるべきだ」というお考えであるとするなら、わたしは「そうした紛争の当事国(ないし当事主体)を軸としたものの見方から離れるべきだ」と考えています、とお答えします。
>万人が万人とも納得がいく判断を下せない場合、紛争当事者の一方のみを非難する行為は、両者の対立を更に深めこそすれ、紛争を解決に導くことは、到底難しいことは自明だと思います。
という点も、
>紛争の調停というのは、当事者双方の主張を中立的立場から吟味し、折り合いをつける方向でなされています。
という点も、それ自体に異議はありません。しかしこれらのいずれも<ハマスvsイスラエル>という構図のなかで、紛争解決の道すじを求めるものではないでしょうか。
わたしも<ハマスvsイスラエル>の紛争解決としては、そのような中立性を保ちながら、和解への道すじがついていくことを望まないのではありません。
ですが、拙詩の主たる関心は<ハマスvsイスラエル>というものではありません。
言うならば、<軍vs市民>です。
そして、無差別大量虐殺など、もってのほかだ、ということです。
たとえハマスがロケット弾による攻撃を先行して行おうと、空爆だけをもっても、国際法上、正当防衛の範疇を越えるものとみなされるでしょう。それは、ハマスが正しくてイスラエルが間違っている、ということを意味するのではなく、イスラエルの空爆は国際平和を乱すものとして、国際平和秩序維持にとり、イスラエルの空爆は即刻停止すべきだ、ということを意味します。
孤蓬さんは、おそらく、あの地域の恒久的平和へのご関心がおつよいのではとお察しします。そのためには、どちらの側につくこともせず、中立的立場から、平和に向かう礎を一つ一つ積み上げていくしか解決の道はない、とお考えなのではと想像いたします。
紛争の当事者同士にたいするそのお考えと、紛争そのものの犠牲になっている者(市民)への救済とは、フェーズが違うのです。
紛争の当事者(被害的立場にある者としての)でありながら、紛争の主体ではない、ガザ市民を今ある生命の危険から救い出すことのために
「イスラエルは空爆をやめよ」
と訴えることが拙詩の足場です。
そしてこうした反戦詩を、いかなる立場に立ち、いかなる内容により(ハマスについて一言も書かずに、というのはこの点にあたるかと思います)、いかなる表記をなして綴るか、ということは、反戦詩における詩論であろうかと存じます。
湾岸戦争に際しては、藤井さんと瀬尾さんが論争を展開なさったようですが、反戦に際する発語のスタンスとは、いまだどうあるべきか、わたしには答えが出し切れていないものです。
考えさせられること多々ですし、孤蓬さんからいただくコメントからも、私はまた考えさせられております。
いずれにしましても、泣くのは、丸腰の弱者である、市民なのです。その市民が、ロケット弾にさらされていればやめろと言うべきでしょうし(この点については、私は詩としては書いておりませんが)、同じく市民が、空爆にさらされていればやめろと言うべきでしょう(それがこの詩です)。
そのとき、ロケット弾をやめろという反戦詩を書いていないのに、空爆に対する反戦詩だけ書くのはおかしい。といったご批判も挙がるかと思いますが、それもまた、わたしが何を詩で反対し、何を別な手法で反対するかといった領域にもかかわってくることであるでしょう。
「詩論」ではない、とおっしゃる孤蓬さんの心中は、どのようであるのか、私の想像ではいたらぬこと多々でしょう。
平和を希求なさる孤蓬さんのお気持ちを傷つけてしまっていたら申し訳ないです。
わたしとしては、藤井さん瀬尾さんの湾岸戦争時の論争をふまえつつ、詩において反戦を訴える必要を、このたびの無差別空爆に対して感じたため、このような詩を書いた次第です。
もしご批判なさるのであれば、反戦詩における孤蓬さんの詩論をもって、ご教示くださいましたら幸甚です。
---2009/01/07 01:01追記---
(一部、訂正しました)
紛争の当事者でありながら、紛争の主体ではない
↓
紛争の当事者(被害的立場にある者としての)でありながら、紛争の主体ではない
---2009/01/07 09:49追記---
孤蓬さん
おはようございます。以下、手短に。
◯イスラエル軍の攻撃は、国際法に反しています。
◯「市民」とは、平和に暮らしたいと望み、戦争を手段とすることを忌避する者ではないでしょうか。
武力行使に及ぶ場合は、国際法に規定される範囲を逸脱してはなりません。
◯「イスラエル政府は『無差別爆撃』ではなく、軍事的な標的を狙った爆撃である旨を発表しています。」とありますが、昨日イスラエル軍が、ガザ市民の避難していた国連運営の学校を攻撃したことはいかがですか?
それも「ハマスの兵が潜伏している可能性があったからだ」として正当化できるとするなら、ガザ市すべてが「軍事的な標的」となります。
---2009/01/12 03:22追記---
孤蓬さん
拝読しました。
おそらくこういうことでは、と思うのですが、
孤蓬さんがおっしゃっていることはわたしにも理解できることのように思います。
ただ、それらは、散文的正しさだと、捉えています。
孤蓬さんは、詩においても散文的正しさを要求なさっています。
わたしはその立場を採用しません。
この違いは、詩論の違いなのだと思います。
これをわたしは詩として公にしていますが、もし散文であったなら
孤蓬さんのご指摘に異議はないのです。
反戦詩とは、どのような場所からいかなるこえを発したときに
なにがしかになり得るものだろうか、と書いたのがこの詩です。
そろそろわたしは、この詩を置くことを以て、孤蓬さんへのお返事に代えさせていただこうかと思います。
小池さん
拝読しました。
お書きになってくださったことのひとつひとつ
考えさせられます。
ありがとうございます。
---2009/01/15 09:49追記---
ヒサカズさん
コメントありがとうございます。
拝読いたしました。
正しいことはない。そのなかで何を、ということがあるだろうかと思っております。