ポエムのこと/白井明大白井明大さんのコメント
泉下イチイさん
タッキーだったら「詩を書いている時点で詩人と名乗りなさい」とかニコニコしながら言うかもしれませんが、それはそれで敷居の高いことかもしれませんね。なににしても、詩をやっていることは幸せなことだと思っています。
---2008/11/13 02:40追記---
ポエムと詩は違う意味を持つというのはまた楽しい見方ですね。ミシンはマシンから来ていたのですね。言われてみれば、そうしたカタカナことばはかなりありそうです。
ポエムって、ではなんでしょう。どうしてポエムを愛したり、またけむたがったりする人にだけ、ポエムの姿がみえるのでしょう。そんなことはないのかな。私には、ポエムだと言われるものが現代詩にみえたり、現代詩だとされるもののなかに、これはポエムだってさっき言ってたなぁと思えるようなものが見受けられたりします。
声はすれども姿は見えず
そんな存在なのでしょうか。
---2008/11/13 10:08追記---
タッキーは桑原滝弥さんです。
こんな人です。
http://www.kandakyoko.com/
来年1月に谷川俊太郎とポエトリーリーディンガー(※すみません、そんな言い方はありません)がいっしょに朗読をする「俊読」というイベントをするみたいなので、よかったら応援してあげてくださいませ。
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深夜の戯言のようなもので、起きて今朝読んでみたら、あちこち誤字脱字や文章の意味が通ってなかったりしておりました。。あたたかな目で読んでくださりありがとうございます。
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>個々の作品について直接言うことは少ないのではないか(かのっぴさん)
私もそこが物足りなく感じられるところです。この詩がポエムです。ここがいただけません。などとしてもらえたら分かりやすいのにな、と思います。現にそうなさっている方もいらっしゃるのかも知れませんが、寡聞にして存じ上げません。またいろいろな場でお話を聞き、ものを読んでいかねばと思っております。
そしてまた、ポエムとしてこんなに素敵なものがあるよ、というアナウンスがもっとあったらいいのにな、とも思います。脱線しますが、最近(といってもここ数年内ということですが)驚いたのは、『ぴゅ〜と吹く!ジャガー』という週刊少年ジャンプ連載のマンガで、時折パロディとしてナンチャッテ詩が登場するのですが、これがまるで秀逸な現代詩として読めてしまうのです。詩から逸脱するところに詩が生まれるというのが、詩であるといいなと私は思っていますが、詩であろうとせずにパロディでいいから詩ぽさを強調しようとするとき、意図せず面白いものができるのかもしれません。その秀逸さゆえに可笑しくて笑ってしまうのですが、また別の回では作者がポエムと認識しているのではないかと思われるものも現れた記憶があります。単行本を買っていないのでここでご紹介できないのですが、他ジャンルの方からみたとき、詩とはこのように特異性を強調できるものなのか、と楽しく読むことができました。
どなたかが以前、この場でお書きになっていた記憶がありますが、詩のあるジャンルや、傾向、流派などを蔑称扱いするのはどうかなと思っております。では蔑称扱いするとはどういうことかと言えば、かのっぴさんがおっしゃるように「こういう詩は評価する、しない、というごく個人的な価値観の表明のなかで詩とポエムの使い分けがされるのかもしれない」(私もそういうことがあるのではと感じております)と恣意的に映りかねない述べようではないか、そうしたアンフェアな物言いがそれにあたるのではと思っております。
---2008/11/13 11:50追記---
>コンテンポラリーってバレエとは真逆の動きですよね。
そうなのですか。バレエはほとんど見たことがなく(幼少期に幾度かです)、真逆かどうかも分かりませんが、ピナ・バウシュは演目のなかで、あきらかにバレエに対する批判を行っていると見受けられるシーンがあるのです。
ピナはバレエをしていたようです。その内幕に嫌気がさして、コンテンポラリーに移ったのではと、その演目をみて感じましたが定かではありません。
ところで、コンドルズをご覧になったことはありますか?
全員が日本の男子で、学生服を着て踊る(コント付き)人たちで、主宰の近藤良平さんは最近テレビで「サラリーマンネオ」や「からだであそぼ」などに出演しています(ごぞんじでしたら失礼いたします)。
ですが、なかなかどうして一筋縄ではいかない団体で、バレエの基礎どころか、いや、きみ、筋トレしてる?ていうか、体重重くないの?というダンサーまで活躍しているところです。先週、公演を観てきたのですが、とても真摯にコンテンポラリーダンスの舞台を構成させているのがひしひしと伝わってくるのですが、一部のダンサーを除いて絶対にバレエの基礎をしっかり習得していないはずだと思うのです。
それでもコンドルズの真摯さは疑いないと私には感じられるのですが、おそらくそうした例外はあるにせよ、コンテンポラリーダンスにおいても、バレエの基礎に通じるものは大切にされているであろうと思います。
コンドルズはこちらです。
http://www.condors.jp/
あんまりにおもしろい舞台をいつもいつもやってくれるところなので、ついつい熱く語ってしまいました。ありがとうございます。
---2008/11/13 23:47追記---
コンドルズは好きなんです。今週末は、近藤さんが古楽をバックに数人のコンテンポラリーダンスの人たちと踊るのを観に行ってきます!入手杏奈さんという若手のかたもいらして、ちょっと気になっています。
あと最近は康本雅子さんが最高に好きです。あの人はかっこいいです。是が非でもオススメです。
舞台でからだを動かす人達というのは、なぜああも、燃え尽くそうというような表情でいるのでしょう。美しいです。
---2008/11/14 01:27追記---
いつだって、いじめっこのほうには、そんなつもりないんです。
ポエマーですか? と訊かれたこともありましたが、そうですとちゃんと答えときました。
---2008/11/15 03:41追記---
ポエマーですと言える人は幸せです。ポエムとともにあるから。
抒情についておおいに励まされたのは、辻征夫さんのこんなことばでした。以下、現代詩文庫155『続・辻征夫詩集』からいきます。
「たとえば現代詩は、感情に、あるいは抒情におぼれちゃいけない、流されちゃいけないとか言われてたでしょう?(中略)詩を書くとき、感情あるいは抒情がこっちに流れるとこのへんですぐせき止めなきゃいけない、あるいはこっちに流れるとこのへんでせき止めなきゃいけない、これをやっているうちにいつのまにか、いつも一定の幅を持った、いわゆる現代詩というものが、たくさん書かれるようになって来たわけですね。じゃそれがつまらなくて退屈しちゃったらどうするんだ。ぼくは枠をとっぱらっちゃった方がいいと思うんだ。ぼくらは土木工事をやっているんじゃなくて、詩を書いているんだから、感情が流れるというのはあたりまえのことなんです。流れたら流されてみるべきだと思うんだ。何処へ行くか、ずうっとね。(中略)だから怖いことなんだけれども、でも行ってみよう。滝があったら「あ、滝だ!」って言ってみようと思うんだ。「滝がある筈だ」じゃ、いくら深刻に言ったってだめですよ。自分が抒情的資質を持ってたらね、それでやるしかないんですね。もうしょうがないんだ」(「詩は何処にあるか ──富沢智と(一九九七年)」より)
これ読んだら、このことについて、あとは詩ぃ書け て話です。そんなふうに辻さんに背中をおされた気がしました。辻さんはこうやって、たくさんの抒情詩人や抒情詩の卵に、いまでもエールを送ってるんだなぁ。好き。
---2008/11/16 19:42追記---
K.SATOさん
ポエムと詩の違い、というと、ポエムは詩ではない、ということになってしまいますけれども、よいのでしょうか。
何を関心としてお持ちなのだろう?とコメントを拝読しますと、ポエムをなんとか捉えようというお考えのようにうかがえます。
おもしろいな、と思うのは、ポエム/詩と同様に、デザイン/芸術に違いをみていらっしゃるのですね。
ポエムは詩に含まれるひとつのジャンル、デザインは芸術に含まれるひとつのジャンル、という捉え方ではないところが独特に思えました。デザインは芸術とは違う、と言うとまた大変なご主張な気がいたしますが、それもまた面白そうですね。
小野カオルさん
カテゴリ分けやレベル貼り自体が目的であるなら、それはそれでよいように思うのですが、自分がよしとするタイプの詩をいたずらに持ち上げるために、そのタイプ以外の詩をこきおろす、といった論法に説得力を感じないのです。
そのたびに、定義もサンプルもあいまいなまま「ポエム」ということばが敵役としてひっぱりだされるのは、ポエム(詩)が気の毒だなと思えてしまうんです。ポエム(詩)を書く身としてわりあい切実なさびしさ(やれやれ、に近いです)を感じます。
鈴女さん
先週のコンドルズに引き続き、昨日、近藤さんの舞台を観てきました!コンドルズとはまた違った一面を見せつけられました。かっこよかったです。
佐々宝砂さん
ポエム擁護派とみました。よっ、きのくにや!
私はポエムは詩だという立場なので、積極的にポエムを一ジャンルとして見ようとは思いませんが、一ジャンルとして肯定的に捉えようというかたの考えをわくわくと楽しみにする気持ちはございます。
ポエムの例となる作品を挙げるとしたら、過去のどんな作品がそれにあたると言えばいいんだろう、、と考えただけで問題山積みな気がいたします。。金子みすずでしょうか。やなせたかしでしょうか。そうした例を挙げていったとき、おそらく現代詩のなかでもポエムにあたると思われる作品が浮上してくることと思います。しかしそれは問題ではないでしょう。佐々宝砂さんのお考えとは異なるかもしれませんが、ポップソングを引き合いに出したK.SATOさんのお考えによるなら、渡辺玄英『火曜日になったら戦争に行く』などはポップな現代詩です。高階杞一さんなどの詩もそうではないかと思われます。境界線上に作品が存在するからといって、ジャンル分けできないことにはなりませんし、ポエムと現代詩が重なる部分がある、といってジャンル分けとしては済むと思います。
ただそうすると、ポエムはだめだ、現代詩はいい、と主張する人とはバッティングするだろうと思います。渡辺さんも高階さんも現代詩だから、ポエムじゃないやい、と言い出すと思います。ご本人たちは「どっちだっていいじゃん。ていうか、そんなのどうだっていいじゃん」と言い出すような気がしますが、それはご本人にきかないとわからないのですが、現代詩と重ならないようにポエムを定義するだけでも一苦労だろうなと容易に想像できます。
ポエムを「大衆詩」と位置づけようとなさりつつも、さらに考慮の余地があるとおっしゃるのは、私もそうだろうなと思います。「大衆詩」と一言言った瞬間、とある詩人(まぁ、詩手帖などにも書いている友だちの詩人さんですけども)は目の色を変えて、否定しにかかってきます。それくらい、戦後詩にとって「大衆詩」ということばは一つの禁句のようですし、歴史をひもとけばそうした反応の背景に頷ける理由も見出せるのでわからなくはないのですが。
古い音楽にもそうですし、また新しい音楽にも、大衆のものと、そうでないものがあると思いますし、佐々宝砂さんがそのあたりの微妙なつなひきをふまえつつ、慎重に、それでも、そんな踏めば飛ぶよな地雷原のようなところから、ポエムの定義という一つの指輪を見つけようとなさるそのホビット的な勇気にわくわくいたします。
---2008/11/16 20:13追記---
とうどうせいらさん
(おなごの妄想!素晴らしいと思います。なのに、すみません、、、ジャニーズのあの人ではないのです。。本当にタッキーが詩集を出してたらそれもそれで楽しいですね。詩人のタッキーも愛されキャラで、がんばってるので、ジャニーズのタッキーみたいになったらいいですね。このあいだ新聞で俊読イベントか何かのことが紹介されたようですし、着々とステップアップしてるみたいです。これからはタッキー(詩人類)とかにしてみます。
---2008/11/16 22:04追記---
れつらさんの散文「ポエムのこと、を読んで思ったこと」拝読しました。
poemを詩と翻訳すること、poemをポエムとよむこと、なにかしらことばにされたものに対してポエムとすること、これらが別問題であり、これらをごっちゃにしている、とのくだりはまず最高でした。そのほかの箇所もそうでした。
楽しいですし、わくわくします。
ポエムは詩じゃん、以上。という言い方ではぐらかしているところは多々あります。かなり置いといてる話がいっぱいあります。
余談ですが、文字通りの意味での拙文ではぐらかしている多々な点は、「ポエム」というものが日本の詩には確かにあると主張する側の人がまずは論証すべきことかと思っております。
私は、論証責任の薄いであろう「ポエムは詩だと思います」という立場に立ちました。ずるかもしれませんが、すみません。そこからさらに「ポエム」に深入りするかたがいらしたら、拍手喝采です。なので、れつらさんの登場はもう、拍手喝采です。
佐々宝砂さんもポエムに関することをお考えのようですが、ですがまともに正面から行くと、まず無茶苦茶大変だと思います。佐々さんは正面から行かれる方なので、たぶん無茶苦茶大変だと思います。「大衆詩」なんて言ったら、もう。。
上のほうで私は「ポエトリーリーディンガー」という名前を勝手に考えましたが、れつらさんの考えに従えば、これも否定すべき忌むべき名に違いありません。ですがこれは一般に流布しないでしょう。ポエマーが流布したことには、大勢の人間が加担したことが原因にあるというのは、卓見だと思いました。その大勢の人間の加担とは、一言でいえば、「詩人への偏見」です。これに類するものに「オタク」があります。どちらももとは蔑称だったものが、程度の差こそあれ、蔑称から通常の呼び名に変わりつつある、といったところでしょうか。ポエマーはまだまだ蔑称の域のことばかと思います。
私がなぜ「ポエマーなの?」ときかれたときに「そうです」と言うかというと、世間の偏見をはねかえすくらいじゃなきゃな、と勝手に思っているからです。そうすべきだとは思っていません。勝手にそう思っているだけです。偏見を受ける側として、タフになっているだけの話です。
ちなみに「詩人なの?」にはことば上、偏見はありません(内心は人によるでしょう)。「詩人です」は偏見をはねかえして言うことばでもありません。
なんだかとりとめもなくなってきましたので、このへんにいたします。
重要な論点はまだまだスルーしております。穴だらけの雑文にもかかわらず、感謝です。