【エッセイ】裏庭について – それからすこし家の話/mizu K夏野雨さんのコメント
いい文章です。とても。とくに、「家が、そこに求める気配」という要素が、すばらしいと思います。鉋くず、しゅわしゅわ。いいにおいだし。
へびあしではありますが、僕の個人的経験とかたよった見聞からのぼんやりした感想をすこし。
僕はじつは、日本の田舎の家の裏庭に限っていえば、裏山の要素が欠かせないのではと思っているのです。(裏庭と裏山でへんな日本語なのですけども。)というのも、僕の実家は結構な田舎なのですが、集落の、ほとんどの家屋が、土地の起伏にあわせ、山を北に、南を向いて建てられているのです。(山といっても、こどもが労せず頂上まで駆け上がれるような、ちいさなものです。)その山と、家とのあいだに、たけのこが生えたり、柿が植わったり、にわとりがこここと歩き回っていたりする「裏庭」があります。
しかし、山と裏庭と家との境界は、とても曖昧で、秘密の花園やトムの庭とはあきらかに違っています。山と裏庭の境目には、ふきやらきのこやらが栽培とも自生ともつかない格好で生えているのです。しかし、木や竹がしだいに深くなり、明らかに裏庭とは呼べなくなる地点、は、たしかに存在します。それは具体的に木がどのくらい多くなったか、ということではなく、人の気配よりも山の気配が勝る地点ではないかと思うのです。わるいことすると、山からむにゃむにゃが降りてきて、頭からむしゃむしゃ食べられるとぞっ。と、ちいさいときにはよく叱られたものですが、日本の裏庭の境界は、表は家、裏は山、それも、異界の気配のようなものによって目にみえない線をひかれているようです。
そんなことを考えたりしていたのですが、今回mizu Kさんの文章を拝見して、西洋の裏庭が、「表」に対して呼吸しているのに対し、日本の田舎の裏庭は、「裏」に対しても呼吸しているのではないか、と思ったりしました。
何にせよ裏庭という言葉の親密な響きには、さまざまな考えが思いめぐり、とってもまとまりそうにありません。長文すすすみません。