作者からのコメント
あはは。ジョークです。ポイントは投稿と削除の時間だけなのです。にやり

 んー。雑談で指摘されているのはこの詩のことだろうか(悩)。露見草様のお心遣いが嬉しすぎるので、ちょっと、解説などしてみようと思う。誰も見ないだろうが。(ああー、なーつやすみー。(TUBE)<おぃ)
 本作は事実に基づいて事実とは別に書かれている。なので、いったん投稿したのも本当だし、常連さんと思わしき人にお伺いをたてて送信したのも本当で、自分で「とちくるってる」と思ったのも本当だし、削除したのも本当だ。内容だけが事実と若干違う(解釈しだいだが)。
 それで、その過程で、私はあることに気付いた。それが本作のタイトルだ。つまり、「投稿」の内容が「本能」、「削除」が「意志」に対応している。人間は、「本能」から直接「意志」に連動することなく、「超自我」という検閲行為を経て「意志」へと至るのが通常である。簡単に言うと、「飯食いたい」(本能)⇒「授業中だからダメ」(超自我)⇒「飯食わない」(意志)、という過程を経て、人間の行為はなされるということだ。
 しかし、サイバー空間内での問題に、超自我=価値基準=モラルの瓦解の問題がある。なぜ、実空間よりサイバー空間のモラルが低いか(視点がちょっとずつずれている点はご容赦ください)。
 この問題について、いくつかの見解がある。1つ目は一般予防つまり心理強制の度合いが低いというもの、2つ目は保証されている安心感があるというもの、3つ目は独自の社会が未だ構築されていないというものである。だが、ここに、私は本能と意志のタイムラグがあることを提唱したいわけである。
 サイバースペースは今のところ文字主体の社会である。文章によって交流がなされるが、この文章の作成行為にはどういうわけか、超自我の検閲機能が遅れてやってくる。(と私は思っている)そのため、時を置かずに表示されたものは本能が現れていることが多い。実際、私が投稿した文章も手直しが不必要なほど本能むき出しであり(もっともそういう風に書こうとしてテーマを混ぜて書いてはいるのだが)、時間を経るごとに検閲機能が働いてくる(この時点では検閲といわないな)。理性が働くといったほうが理解しやすい人もいるかもしれない。
 これが、この詩のテーマである。あとは、指標も満載なので読み取っていただきたい。
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