作者からのコメント
>アラガイsさん
そうですね。まだ全然、脱構築ということは出来ていないと思います。
観念的な意識、というのがまさに構築的なので、妙な感じですが、
確かに脱構築を観念的に意識していると思います。
表面的な意識や自意識には、強い意識や思想は表れないと思いますが、
無意識的になる(表面的な意識を取り除く)ための、意識的な方法論はあるはずですから。

定型文と常套句の畳みかけでの、意見の表出しか出来ていないな、とは意識しています。
詩(テクスト)を書くにあたって、自覚された自己(僕、私)、
「書く主体」という意識(自意識)が強すぎるのだと思います。それに煩わしさを感じます。
意識された主体というのは、大抵偽物であり、借り物だと思いますから。
「本当の自分が見付からない」ということをテーマにすることも出来ますが、それだと行き着く先は、
消極的な、自分でも何故死にたいのか分からないような自殺だけだと思います。

「書かなければ」という切実さは誰にでもあると思うのですが、
僕の場合は、書く材料を、そのまま言葉にしてしまうところがあって、
書くための強い動機、つまりは衝動が訪れるまで、待っていることがなかなか出来ません。
ですので、アラガイさんが、僕の言葉に、掴み所を感じられないとしたら、僕の落ち度です。

「思想の移り変わり」は、これから書く僕の言葉で判断してもらう他無いですね。
それが既に具体的に把握出来ているなら、とっくに僕の言葉の質は変化しているはずですから。
それに、独創的な思想と言うほどのものは、僕には無く、
あるとすれば、「自分自身でありたい」というくらいなものです。
本当の意味で自分自身であれれば、独創的でもあるのですけど。

変わろうとしていることだけでも、見て取って頂ければ、とても有り難いです。
何もかもを諦めて、ただ死にたいと思っていたり、
単に死に憧れている訳ではない、ということを読んで頂けたなら、本当に嬉しいです。

あと、蛇足で、言い訳なのですが、これからやっぱり僕は駄目になるかもしれないし、
あやふやな生存が続いてしまうかもしれません。それがとても不安です。
そんなにすぐに変われるかは分からないし、計画的に変わることも出来ません。
何はともあれ、長い目で見守っていて頂ければ幸いです。


>wcさん
ありがとうございます。
そう言って頂けると、書いた甲斐があります。
戻る
編集