作者からのコメント
>石川和広さん
おっしゃるとおり、レヴィナスの論述は、かなり「したたか」なものだと思います。
「戦争」という事態は、本当は国家間での限定的な実力のぶつけ合い、ルールに従った一種のゲームであると(昔は)考えられていたはずなのに、二度の大戦によく顕れているように、そうではなく人間存在それ自身を一個の「利害」のみに偏らせてしまう凶暴さを持ったものである、ということが明らかになりました。各個人が、その情態として「戦争」という雰囲気に負けてしまうことのない、しっかりした足場、レヴィナスは、「別の仕方で」において、その手掛かりを捜し求めます。「利害」では「割り切れない」何か。それは人間の「社会性」であるわけですが、レヴィナスは、その「割り切れなさ」を逆手に取って、「割り切れない」が故に強固に何時までも帰ってくる足場を、きっちりと構築しようとしているのではないかと思います。
>チャオさん
レヴィナスも「赤が赤くなる」「AがA化する」等の言葉で、そういった事態を語っています。つまり、言葉が二乗されるとき、それこそがまさに「時間」であって、存在の存在することが「響く」ことになる、そうレヴィナスは捉えているようです。
言葉の二乗は、「時間」という、存在の「真理」を明かします。けれども真理は、「語りなおされ」ない限り、干からびた単なる「断定」に堕していってしまいます。詩を含む「芸術」や、哲学や評論という「釈義」によって、真理は「語りなおされ」、初めて再度真理は「響き始め」ます。
恐らくこの辺りはハイデガーの論述に則ったものなのだとは思いますが、レヴィナスは、このような「語り」が何処から到来するのかにも関心を寄せているように思います。「語らなければならない」のは「他者」がいるからです。真理の受け取り手としての主体から、責任による語り手としての主体へ、レヴィナスはその転換の場面の結節点をseに見出そうとしているのではないかと思われます。
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