作者からのコメント
ひばりくん

コメントありがとう。

>空気読めない奴は基本的に考えてない奴と認識されちまってね。でも空気読めない奴こそ、自分で考えてるが故に周りと別行動取るんだけどなぁーとか思って。

空気の読めない人は考えていない人だとは私は思わないけど、時と場合によっては協調性が無いとは思うかも。集団行動をするときに別行動されたら協調性がないと思われても仕方ないかもね。でもそれで考えが無いとは思わないよ。

>空気読めない周りから浮いてるような奴が反省しなきゃいけないのか。
>空気読める独自性のない奴が反省しなきゃいけないのか。

どちらの人も反省の余地はあると思う。
周りに合わせているか合わせていないかという視点から考えれば、前者は自己主張が強すぎるように思われるだろうし、後者は自己主張が無さ過ぎるように思われるかもしれないね。ただ、空気の読める人は独自性がないという訳ではなくて、ただ自分の考えを表現するのが苦手であるか、それを控えているのだと思う。

この文章は私自身への戒めとして書いた文章でもあるから、言葉足らずになってしまったところもあるかもしれないけど、にもかかわらず、こうして独自の視点からコメントをくれたのは本当にありがたいことだと思っています。ありがとう。

私も空気を読めない人だから、的外れなことを書いてしまったかもしれません。あしからず。


>批評子さま

コメントありがとうございます。

>ひところ盛んだつた共産主義的、あるいは資本主義的考え方は今の人たちには無縁ですね

共産主義や資本主義の盛んであった世代に生まれていない、そのような時代を経験していないという意味では、わたしを含めた今の若い人は、これらの考え方に無縁であるといえるのかもしれません。
けれど、上記のような考え方やそれらが起こしてきた功罪が反省されて、現在の社会や世界は成り立っていると考えると、それらの考え方は決してわたしたち今の若い人にも無関係なことではなく、むしろ今を生きるわたしたちの周りを取り巻く考え方の土台となっているのだと思います。
そう思うと、現在ある凡ての思想や考え方を過去のものとして排除してしまうことはできないですね。勉強することばかり増えて、勉強嫌いのわたしには大変です^^;

>世界が、つまりグロウバル化した今は、自分で考える人、個性的な人は少なくなつたのでしょうね

グローバル化がどのような事象なのか、わたしにはわかりません。ただ漠然とした印象を述べさせていただけるなら、様々な関係の複雑化ということしかいえません(本当に漠然としていてすいません)。
関係が複雑になるにしたがって、その関係の主体が関係の数だけ様々な個性を持つようになったのだとしたら、これまでのような統一的な意味概念の個性という捉え方では、複雑化した個性を把握しきれないのかもしれない。
それ以前に、複雑化した関係の前に立たされた関係の主体は、その膨大な量の前になすすべを失ってしまっているのではないか。自分で考えるには量が多すぎて途方に暮れてしまっていて、社会において個性を発揮することも難しくなっているのではないか。

そんなことをちょっと考えさせられました。なんだか自分でも良くわからなくなってきてしまいましたが、いずれにせよ個人は自らの世界解釈を頼りに社会と関わっていかなくてはならないことに変わりはありませんから、自分で考えることは大切ですよね。

長くなってしまいました。すいません。コメントありがとうございました。
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