ポイントなしのコメント
[「ま」の字]
軍国主義への反省の一つとして「簡単には高揚しないぞ」「簡単には陶酔しないぞ」という立場があったと思うのです。
芸術には、流れに身をゆだね、思考という「枠」を取っ払おうという“陶酔系”と、鋭くかつ明瞭に造形し対象に距離をとる“覚醒系”という2つの立場があると思うのですが(ちなみに麻薬もこの2系統に分類されるそうですね)、軍国主義に傾斜した日本では「民族の慟哭」だとか「悠久なる大義」とかいう、個人から離れかつ正体不明のものに全的に身をゆだねて熱狂する、という態度が幅を利かせていたという痛烈な反省があったのだと思います。ちなみにナチスドイツもこの手の没我的陶酔を上手く利用した(集会でヴァグナーを流したり、親しみやすいメロディーの歌を作ったり、映画作ったり)とされています。
こういう事情を踏まえ、戦後という時代においては、極度に覚醒的かつ、極度に反陶酔的な芸術論が成立したのだと思います。「近代詩と現代詩の違いは、批評性のあるなしだ」という論も、この極度に覚醒的なるものを尊重する立場から発生したんじゃないかな、と思っています(没我から批評は生まれないでしょうから)。
ただ、没我的陶酔は絶滅してしまったわけではなく、日本では学生運動や労働運動あるいは反米運動などに付随した芸術に案外顔を覗かせていたりすると私見しています。「名もなき民衆」とか「連帯」とかのスローガンで。
私個人としては、“覚醒”一辺倒はもう終わりだと思います。ある意味人間の生理(没我的陶酔も生理の一つだと私は思っています)に逆行する論ですからね。個人がこれを追求することは別に悪いとは思いませんけれど、大きな流れとしては終わりじゃないかと。
無論それは“陶酔”一辺倒に逆戻りということでなく。要するに各人が陶酔と覚醒の程合いを見定めるというだけのことだと思います。
※余計な一言ですが、政治の世界では、単なる逆戻りも起こっている気がします。
戻る
編集