ポイントのコメント
[室町 礼]
小説の習作ということですが.....今回は 「贈与論」的にこの小説の構造を指摘しておきたいとおもうのです。 贈与は常に返礼の義務を生みます。 ですから書き手の「不幸な出来事」は読者に負債を背負わせます。 読者はその負債を返すために、共感・理解・解釈・批評という形 で応答する。それに比して、 「私は幸せだ。こんなに幸せだ」という語りは読者に何も負債を 負わせない。読者は返礼の回路を持てないので、関係が閉じる。 つまり読まないか、読むのを途中でやめます。 まとめると、 ●不幸は「あなたの応答が必要だ」という形で関係を開く。 ●幸福は「私は満ちている」という形で関係を閉じる。 ではこの小説はどうかというと「幸福」でも「不幸」でもない。 このテキストは、 ●幸福の語りの“過剰”もなく ●不幸の語りの“裂け目”もなく ただ“中間の停滞”だけが描かれている。 贈与論的に言えば、 幸福の語りのように関係を閉じ、不幸の語りのように関係を開くこともできず、 読者に何も負わせない。だから読者は「受け取るものがない」。 贈与論ではなく倫理的な態度からみれば「主体の責任の回避」が起きている。 この習作は 欠損が裂け目として提示されず 主体が透明化し 出来事が意味の回路に接続されず 幸福でも不幸でもない停滞が続き 主体が責任を引き受けない という構造のため、 読者に対して“贈与”が発生しない。 だから読者は心を動かされないし、 「幸せならそれでいいのでは」という感想に落ち着く。 ---2026/02/12 03:51追記--- わたしの言ってることをまったく理解していただけてないのでこれ が最後になりますが、 わたしがこの小説をどう見ているかというと、かなりきつい言い方 になりますが、試験管のなかの動きを観察者が淡々と記述している だけにみえる。試験管の中で"「事件」が起これ"といってるのでは ないことをご理解下さい。「良心的人間だから事件は起きない」と いうことですがそんなことはあまり関係ないのです。 夏目漱石の「それから」だって何 もこれといった事件起きてません。でもなぜあんなに読まれるかと いうと、 「自分はこう感じてしまう/こう考えてしまう」と、主 体が出来事にちゃんと関与しているからです。あなたの小説でいえ ばカナが怒ったとき漱石のように「自分はこう感じてしまう/こう 考えてしまう」と書けない。自分を読者にさらすのを(漱石とは違 って)怖がっている。そこでどう書くかというと「喉をつまらせて しまう」と書く。これで読者が書き手の微妙な気持ちを憶測してく れるものと考えているようですが、もしイイネがつくとすれば、こ れは漱石的な「自分はこう感じてしまう/こう考えてしまう」では なく、逆にそれを書くことから逃げる表現(「喉をつまらせる」) に同調したからではないでしょうか? この「喉をつまらせる」はカナの怒りへの書き手の反応というより、 やはり書き手の自分が、自分を書くことへの抵抗を示す「喉をつまら せる」にみえる。これについたイイネは小説からもたらされた贈与 ではなく、おそらく作者が主体的に出来事に関わらない心境 への同情や共感からでしょう。とすると贈与のないこのような作 文は、またしてもきつい言い方になりますが、要するにネットとい う共感の体系のなかでしか意味をもたないような気がするし、また、 これは漱石とは違って広く大衆に届くようなものが欠けているよう な気がしないでもないのです。 これをもってわたしの批判的なコメントは今後一切やめます。 どうも辛口の批判、お許しください。 ---2026/02/12 03:54追記---
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