詩を書くことと詩を読むこと/刑部憲暁
しれない。それらの情感は、詩の全体と不可分のものであるだろう。果たして私の作品は、その全体に重なり合うだろうか、それとも拙く逸れてゆくのだろうか。
詩を読もうとする時、私は作品の言葉を追う。そのイメージの関連性を追いかける。その道筋は、例えば私が書いている時の、言葉がやって来るその道筋を、正確に、反対に辿り直すことになっているだろうか? 私は言葉を手掛かりにして、詩人の額を撃った体験の方へと、正しい道を辿っているだろうか?
その保証はない。どの不安や疑念に対しても、それを安心へと導く保証などは何処にもない。確かなのは、一つ、あの恍惚の時がある、ということであり、一つ、誰かが読む、ということだけが、詩人の窓辺を照らし出す唯一の輝きとなる、ということだ。私が信じて良いのはそれらのことだけであろう。
もう一つ、読んでいる時、私は書くことが出来ない。詩的体験は私の前で閉ざされて、私はその点で完全に、解雇され、見捨てられた、路頭に迷う浮浪者の一人に過ぎない。私は読み続けるだけだ。何の保証もない作業に没頭するだけだ。あの月光は、無私の光だ。だからあれほど優しく詩人を見守るのである。
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