疑うことのしんめとりしてぃー(XXX向け)/竜一郎
 
 疑うとは、つまり信じることの対称性である。「対照」ではない。
信じるがゆえに疑わざるを得ない、ということである。

 「懐疑家」を謳っていたニーチェのツァラトゥストラは、
絶対に信じるものがあった。
だから疑うのだ。「蓄群め」といっては群衆を罵るのだ。
信じるものを持たないものは、疑わない。

 こどもは、だから疑わない。
何も信じていないから。
それはありのままを見ているからだ。
透明なフィルタさえ持たない。

だからこそ、すべてに
ウンウン頷いていてもいいのだ。
信じるものができるまでなら。
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