昔の駄文「詩の人称について」/佐々宝砂
 
うか? それは、小説の視点が「彼」の内面も「私」の内面も知っている視点、すなわち「神の視点」である場合だ。そして、二人称の視点も、おそらくはこの「神の視点」なのである。

 と、ここらへんまでは高校生の私もうすうすは考えたのだが、それ以上進めなかった。私は、書き手であるこの私、この私こそが神であると考えてしまったのだ。これはたぶん神林長平のせいである。神林長平の「言葉使い師」という小説、これは二人称で書かれているのだけれど、「君はマリオネット。私があやつる。」という文章で終わっている。だが、「作中の私」イコール「作者である神林長平」と考えた私は、やはりドアホである。二人称小説というものは、そん
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