ディラックの海を泳ぐ人/クリ
彼は
スーツを着たまま泳ぐ
服を着て泳いだことのあるものなら分かるだろう
どんなに泳ぎが上手くてもすぐに溺れそうになる
自力で岸の上に這い上がるのも一苦労
彼は命を懸けてスーツ姿で泳ぐ
スーツを脱ぐと彼であるところのものが失われるからではない
彼は泳ぎ海は泡立ち泡は消え波は到達する
彼のお陰で私たちは
スーツを着ないで楽しく泳ぐことができるのだから
そう
彼はとても優しい
もしこの世界が彼のような人たちでいっぱいだったら…
それでも哀しみは絶えないだろう憎しみも消えないだろう
ならば彼の優しさは無益なのか
そうだとして私たちにそう言い切る資格はない
私たちのちょっとしたちっぽけな無関心は
60億塵も積もってとてつもない重量になっていて
革靴にたまっては彼を深みへと引きずり込もうとする
それでも彼は私たちのためにスーツを着たまま泳ぐ
世界は非条理のままひとは不条理のまま行くだろう
けれど私たちは少なくとも溺れずに泳ぐ
Kuri, Kipple : 2005.08.19
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