鏡を割りたくなるわけ/佐々宝砂
ねたノートと
「ぼく」という一人称代名詞を持っていた
「ぼく」は星と恐竜とSFが好きで
フランスの詩人とアメリカのロックンローラーと
奇跡のような物語をつむぐマンガ家と小説家を崇拝した
黴臭い図書館から校庭を見下ろし
学校の屋上近くにある天文台で煙草を吸い
苦くてたまらないくせに砂糖抜きのコーヒーを飲み
隣室から母の寝息が聞こえても独り寝がさみしくて
「ぼく」はよく大好きな本を抱いて眠った
はじめて化粧するために鏡を見たとき
「ぼく」の目前には深い空が広がり
「ぼく」の背中には翼があった
明るいオレンジの口紅を刷くと
「ぼく」は微笑んで飛び去った
男たちは少年の心を秘めたまま大人になるのだろうし
女たちは少女の心を隠したまま大人になるのだろうし
「ぼく」の愛したものはこの部屋に保管されたままだけれど
私の「ぼく」は行っちまった
もう 二度と戻ってこないのだ
それで 私はときどき鏡を割りたくなるのです
99年度静岡県芸術祭詩部門毎日新聞社賞受賞作品
戻る 編 削 Point(15)