語の受容と解釈の性差について──ディキンスンとホイットマン/田中宏輔
旨や学派には休んでもらい、
今はそのままの姿に満足してしばらくは身を引くが、さりとて忘れてしまうことはなく、
良くも悪くも港に帰来し、ぼくは何がなんでも許してやる、
「自然」が拘束を受けず原初の活力のままに語ることを。
(ウォルト・ホイットマン『草の葉』ぼく自身の歌・1、酒本雅之訳)
こうして二つの詩句を読み比べてみると、ディキンスンの詩においても、ホイットマンの詩においても、“atom”は「原子」であり、語彙そのままに用いられている。引用した箇所について言えば、語の受容と解釈に性差はないようだ。しかし、もしかすると、このことは、“atom”という言葉に、「原子」と「
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