詩小説『雨の日の猫は眠りたい』その3。+あとがき/たま
かにわたしは生々しく生きて、今日という日を積み重ねて来たといえるが、観念的に生きたという実感はどこにもない。汗と涙を拭ってけんめいに生きてきたからだ。しかし、過去にあるものはすべて具象化された記憶であって、今日という日はそこに含まれてはいないし、観念的にしか捉えられない未来はすべて抽象の世界であって記憶にはならない。
たとえば、今日という日が目のまえを流れる映像だとすれば、わたしは時間とともに変化する画面のなかの被写体でしかないし、その被写体を見つめるわたしの意識は、画面の外に存在していて、わたしなんだけれどわたしではないような、どこか寂しげなわたしを見つめている意識だけが追いかけて来るのだ。
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