雨の詩学/葉leaf
雨は思索の器のようなものであり、人は雨という器に包まれて思索へといざなわれる。それまで複雑だった外界が雨という器一色になることにより、人は外界から内界へと関心を移し、自らの来し方、これからの展望、様々な事象の本質などに思いをはせる。
雨粒が一つ一つはじけるとき、そこでは何かが失われている。それは全く価値のないものから非常に価値のあるものまで様々だ。単なる思い付きが失われることもあれば、自らが生み出した命が失われることもある。これだけ贅沢に雨粒が散華していくとき、人にとって大切なもろもろも贅沢に破壊されているのかもしれない。
雨は高速度の経験のようなものだ。雨の中を歩いていると、人は自分が
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