石田瑞穂詩集『耳の笹舟』について/葉leaf
して詩を書いているように思っているが、その間には何らかの感覚的なものが介在しているのである。例えば木について詩を書くのであれば、木の視覚的なイメージはもちろん介在するだろうし、木にまつわるかすかな感情も伴うだろう。詩を書く場合、言葉に先立って生起する感覚的なものはいつだって根源に現前しているのである。そして、その感覚的なものの介在がなければ私たちは詩を書くことができない。この、あまりにも自明であるがため透明化されながらも根源的に必要である感覚的なものを非透明化して改めてそこに遡及するということ。そこで開かれてくる肉感的な詩世界。石田の詩集はそのような「肉」の世界を構築しているように思われる。
視覚も聴覚も透明ではない。それらが世界として現前する場合、必ず感覚的なものが介在するのであり、感覚的なものの根源的な現前がなければ世界は構成されない。その不透明な感覚的なものが、世界の根源にあり、詩作の根源にある。石田の詩集は聴覚を探求することにより、その根源的な感覚的なものに肉薄しようとしている。
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