水辺/伊藤 大樹
、それがひとたび止んでしまうと、あまりに不安定な、卵の上に卵を累ねるような、それでいてどこか涼やかな音色を立てる風に、私はあまりにも安らぎつつあった。溺れるほどの海原のなかで、冷たい一瞥を放って背を向ける私がたとえそこに見えたとしても、私はどうしても、この新しく手に入れた爽やかさを手放す気にはなれなかった。ほとんど藤野とは私には記号にすぎなくなっていた。藤野が好きだった映画を撮り溜めたビデオを捨てることも、ためらいはなかった。
剥きかけの林檎みたいな影がシンクに、洗面所の鏡に、風呂場に、立ち去りがたい染みになっていた。私を罪人に仕立てあげようとするそれらは、花瓶のなかのスイセンを枯らせ、洗濯物を濡らしつづけた。いま私はまさに水辺に立って咲く一輪のスイセンだった。まどろみから夢へ堕ちていく自分をたしかに知覚しながら、私はソファに凭れた。
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