齧りかけの林檎という存在-存在論としての齧りかけの林檎-/風船
 
、存在し得ないのか。存在として把えられないのか。林檎は、林檎と言う本質なのか、林檎と言う実体なのか。はてまた、林檎と言う現象・表象の総体なのだろうか。大衆的にいえば、林檎は赤くおいしそうに見える表皮なのか、その下に包み隠された果肉と果汁なのか。「存在はわれわれの前に立ち現れる現象の総体である。」という、現代で決着をつけたかのように見える、実存主義者のしたり顔の名言を、齧り取られた赤いおいしそうな表皮と、その下からむき出しに立ち現れた果肉と果汁は、またしても
見事に破り捨ててしまった。存在はまたしても、メビウスの環のように、永遠の循環に陥ってしまった。そして、存在をめぐる存在論は形而上学の永遠の課題となった。
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