川柳が好きだから俳句を読んでいる(11、八木三日女が死んでしまった)/黒川排除 (oldsoup)
できるし、次の句集名がまったく違うことを取っても、ここまでで完成した形式があるのは間違いない。俗っぽく言えば三部作的構成に落としこんでいる。で、第四句集『石柱の賦』では海外旅行の経験をガンガン放り込んできてて、カタカナ語の使用と幼児性が暴力性をぬるく包み始め、第五句集『私語』でそれらが爆発し花となる、と言った流れだ。海外旅行に行くと海外から翻って日本の俳句の重要性を思い定型や季語を若干大事にし始めるみたいな傾向、なんなんだろうな、赤尾兜子にもそんな雰囲気あったけど。ともあれ最終的に八木三日女がたどり着いた場所は決して間違いではない。それは確かに溢れだす幼児性のおかげで牧歌的になりはしているものの、隠し切れない暴力性、一部投げっぱなしにも見える、それこそ世間的に言う川柳的なぬるさが、悪い絵本のように結実しているってわけ。それが八木三日女の老人っていう人体のぶつけ方だったんだろうし、おれはそれがとても好きだった。
紅き茸礼讃しつつ蹴る女
ずつしりと冷たき晴着狂女死す
さようなら、八木三日女。安らかに眠れ。
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