田村隆一論??フィクションの危険/葉leaf
った、だが意味が不明確でも詩としてかっこ良ければそれでいいだろう、そういう葛藤である。つまり、引用部は言語行為的にもフィクションでもノンフィクションでもないのである。
最後に、引用部はごっこ遊び的にはどのようなフィクション性を備えるか。1.3.で見たのと同様、引用部は修辞によって意味が不明確にされており、現実には誰によっても語りえない語りがなされているように思える。だが、適切に書き換える、つまり適切に解釈することにより、再び田村自身の言葉としてのノンフィクション性を備えることも可能だ。読者は、一方で、引用部は意味が不明確だからそれは非現実的な語り手による虚構の語りに過ぎないと思わされるが、他方
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