死と解釈のふるまい/kaz.
続けているような気がしてならない。
死の観念について、語れることは少ない、しかし少ないということを語ってしまえば、もうそれで死の観念についての形而上学的分析が出来上がってしまうだろう。死の観念を、理由とか、責任とか、そういったものと結びつけて語ることは、実に危険なことで、もうそれで死の観念のもつ延長が限定されてしまう。この限定化こそが避けるべき倫理問題である。死を出来合いのものと一緒くたにして語ってよいものかどうか、という問いが投げ出されてしまうのだ。
『解釈』についても同じことがいえる。方や自由さを狭める要素として、方や倫理的な問題として現れる、これら一連の“概念からの呪縛”のような
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