詩の周りを巡って 4/非在の虹
ヨーロッパの文学は基本的に饒舌である。
それはその祖にラブレーがいることを見ても明白だろう。
ひるがえって日本の文学は寡黙である、といえる。
しかし、美術の世界は、ことに現代に限って言えば、その表現は饒舌であると言えはしないか。
なぜだろう?
現代人はみょうにうるさく饒舌で、それが美術表現に表れているように感じるのだ。
もちろん、そのことが悪いわけではない。
日本の文芸が、相変わらず寡黙を本道?としているのも伝統というものだろうか?
そのことはいささかの食いたらなさを感じるのだが。
日本文学はその祖に俳句や和歌を持ったことが、言葉の乱費を抑えたのだろう。
しかし文学にはあきらかに饒舌の美、というものがある。
生活から生まれる詩もまた「詩」であることは確かだ。
しかし。
私は大きい規模の構成を持った詩を読みたい。
実に、それが、ない。
では自分で書けばいいではないか。
いや、自分に書けないのでないものねだりである。
だから。
出でよ、現代のホメロス。
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