「欲望と記憶、死と再生」のためのノート(批評祭乗りおくれ作品かもしれません)/N.K.
 
だ。<統一>ということを意識しないことだ。矛盾しているように響くけれど、そうしてできた結果としての<全体>というものを私は信じる。
 詩人の共感する力、特に小さなものに共感する力、あるいはこういってよければ天邪鬼であることが、大文字の座へ何かを置こうとする意志に対して有効だと思える。たとえ、その帰結が、自家撞着におわる詩や表現であるにしても、この状況下で選択されたおそらく繊細なまなざしである。
 フォーラムを覗いてみると、詩人たちはもう何かを拮抗させる方法を取らないで、小さなものに対する共感やささやかなその後の日常の希望を歌い始めている。そうして、<拮抗させる>という方法に風穴をあける。詩人たちの天邪鬼であることが、そのまま<ずらし>となる。私は現代詩人たちに、この意味で希望を持っている。言ってしまえば、詩は詩が方法なのだ。何と幸せなことであろうか、詩人は詩人でありさえすればいいのだ。

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