燃えないごみの日/salco
 
されており
来世などという観念は、
愛惜を含めた執着の業を反照しているだけなのだとも言える
行って帰って来たと言う人、
誰それの甦りだと標榜する人がいて、
その実証手段は不死の者と同様、存在しない
すなわち死は
面でも線でも点ですらない、
無の酷薄なのだと定義するのが最も妥当であり
同時に千万言を費やして無極化するほどの現象でもないのだ
ただ一つ、
この実相について此岸で目の当たりにできるのは
死はこんなにも小さな個体の
「在りき」
という事実をまで消去できないということだ

私達の生は無常を漂う微細な塵挨でしかない
誰の目にも記憶にも触れぬ、極小の分子に過ぎない
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