四谷見附のひと/恋月 ぴの
刀のひとふり
居合い抜きでもみせるように彼は鍔に指をかけ
いつもながらに口元を僅かに歪ませ一太刀で人は斬れないとか
武士の切腹に介錯はかかせないのだとか
そんなことを私以外の誰か
例えば彼の背後に立つ六尺の褌姿の若武者へ語らっているようでもあり
陽に映える刀身の波模様はとても偽物とは思えぬほどの美しさで
その場に押し倒されたとしても
彼に抗うことなど叶わなかったではないだろうか
今年の夏、蝉の鳴き声なんだか寂しいのではと憂いてたけど
訪れた志村坂上近くの公園ではここを先途とばかり鳴き競っていて
何故今更になって彼のことなど思い出したのかと
額の汗を拭うハンカチにあの日あの部屋の移り香を知る
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