労働/攝津正
まったお金が必要になり、一日七時間から八時間の労働を選んだのである。
今の倉庫で肉体労働を始めてから攝津は転向し、一切の運動団体から脱会した。攝津には、余裕が無くなっていたのである。後に攝津が、リプレーザという雑誌に寄稿した転向論で述べているように、生活が苦しいので他者を顧慮する余裕が無い、そういう状態に陥っていたのである。毎日、肉体労働し、帰宅するのみで精一杯だった。攝津の世界は狭くなったが、生活の為にはやむを得ぬことと攝津は割り切って考えた。
攝津を支えたのは二人の友人だった。一人は前田さんと言い、十年来攝津を支え続けている。攝津は、柄谷行人が創設したNAMというグループに所属していた
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